北峯工務店

「うちは、民間工事も公共工事もやる、いわゆる総合建設会社なのでいろいろなことをやります。基礎工事から、ちょっとした工事は全て自分たちでできることはやる。とにかくこの島の建設業、建築業を紡いでいく、繋いでいく、そういう気持ちが強いです。地域の中で、建設業そのものを循環させていく。そんな会社を作っていきたいんですよ」
島に対する思いも強いからだろう、北峯さんの話は自社のことだけで終わらない。常に「島全体の建設業界をどうしていくか」が頭の中にある。

民間から公共工事まで、幅広い仕事を請け負う
だから今は「喉から手が出るほど人が欲しい」

「元々、社長(父)が個人の一人親方から始めて、その当時も忙しかったので人をすぐに雇うようになって、その当時は住宅工事を基本にしていました。資格を取り、建設業許可も取って会社化したのが、平成2〜4年くらいかな。そこから、公共工事も参入するようになりました」

施工事例:島前研修交流センター

もともとの民間住宅の仕事もしながら、時代とともに公共工事の案件も増加。受注金額の大きさは、町営住宅の建築や施設の改修といった公共工事が大きく、件数の割合としても6〜7割を占める。最近では空き家を宿に改修する仕事などもあり、島内で手広く仕事を請け負っていて、海士町だけでなく、島外でも仕事がある。現在、隠岐島全体として建設業界はどこも忙しく、担い手は「喉から手が出るほど欲しい」状態なのだという。

施工事例:海士町のキッチンスタジオ

「現在は、社員が5名と、アルバイトが数名。現場だけでなく、設計スタッフもおり、設計・施工一貫して請け負っています。ですが、やっぱり人手は常に増えたらいいなと思っていますね」

北峯さんは、島の建設業界が大事な時期にあるとみている。というのも、北峯さん自身が大阪から10年ほど前にUターンした時に、すでに業界で働く人の数や年齢構成がバランスを崩していた。これには20〜30年前に景気が悪化した際、多くの大工さんが建設業から撤退したことが関係しているという。

「私が隠岐島に帰ってきた時点で、現場の高齢化は進んでいました。これには危機感を感じ、できることをしなければいけないと思って、この10年の間に若い子の受け入れもしてきました。一方、熟練の職人さんが入ってくれることは難しく、そこが圧倒的に足りていないですね。今は60代の職人さんもおり、何とかやりくりできているが、先々考えるとなんとかしないといけない」

島の中の建設業者を循環させるハブとなり
同時に若い人材も育成

ここ数年で、島の建設業界の状況も変わって来ているという。
「このところ、海士町は内装屋さんが辞められたり、クロス屋さんが辞められたりしている。そうなると、島外から業者を呼ばないといけません。本土から職人さんに来てもらうと、建設費の高騰にもつながるし、地域で仕事をしていく人が育たなくなる。だから、建設業みんなで協力していかないといけないと思っています」

海士町には個人経営の職人も多い。

「総合建設業だからこそ、いろんな会社の状況も知っている。忙しくてもすぐに従業員を雇えないという状況もあると思うし、手に職を持つ人がうまく島の業界の輪に入ることができるように、協力できることはしたいですね」

島には60代以上の職人経験者がいて、40〜50代が比較的少ない。北峯工務店では現在、公共工事を進めるにあたり、施工管理技士の資格を持った人を即戦力として求めている。さらに島内で慢性的に不足している大工、左官職人も、熟練者がいれば採用していきたいという。

一方、人材不足に危機感を感じ、積極的に自社で若い人材を育ててきた。北峯さんは、関心があれば未経験も歓迎だという。
「今働いている若いスタッフは全員未経験者で、うちが初めて働く建築会社でした。全く違う職種からの転職や、学校を卒業して建設業で働きたいと入ってきた人もいますが、そのまま〝この道でやっていこう〟となってくれました。もともと家族経営から始まった会社なので、根付きやすいというか、アットホームな雰囲気があるのかもしれないですね。

今、30代が3人いるんですけど、みんな楽しく和気藹々と働いています。仕事としても公共工事の割合が増えていくのと同時に免許や資格を持っていることで仕事の幅が変わるから、それを取るためのサポートにも力を入れています」

自分の時間を大切にしながら
働くことができる海士町

「ないものはない」というキャッチフレーズを打ち出している海士町。都会に比べてないものもあるが、逆に都会にはない魅力があると北峯さんは言う。

「とにかく海が近く、自然が近い。自分も大阪から帰ってきた頃はよく釣りに行ったり、海水浴に行ったりもした。自然が好きな人は向いていると思いますよ」

都会で働いた経験のある北峯さんは、働き方や時間の流れも大きく違う海士町で、新たな人生の価値観に触れてほしいと話す。

「自分自身も大阪にいましたが、都会でバタバタと忙しい生活でした。通勤に30分や1時間、下手したら2時間もかかっていたのが、海士町では現場まで時間がかかるということもない。ほぼほぼ島内で仕事が完結し、朝早くから夜遅くまで働く、ということがないので、自分の時間を作りやすいというのは魅力的じゃないですかね。社員も自分の時間を楽しんでいるように見えます。

都会での生活は時間に追われて大変な面もある。自分の時間を持てないという方が、仕事もしつつ、趣味やプライベートの両面も充実した生き方ができる場所として、海士町を選んでもいいと思うんです。仕事は大切ですけど、それが全てということではないので」

北峯さんご自身の趣味を聞くと、「今は忙しくてできないけど」と前置きした上で、かつてはガンプラ作りに没頭し、市販の塗料に満足できず、オリジナルの色を自作していたというエピソードも聞かせてくれた。こうした趣味が細やかな仕事のバックボーンになっているのだろう。

途絶えない仕事に対しての人材不足という課題はあるものの、「忙しくて大変と思われがちだが、そんなことはない。ここならメリハリをつけながら働いてもらえると思います」と北峯さん。海士町の建設業界は、こんな働き方ができる場所なのだ。

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隠岐海士交通株式会社

島のバス停には、大きなしゃもじが立っている。
海士町発祥の民謡「キンニャモニャ」は両手にしゃもじを持って踊ることから、しゃもじは海士町を象徴するモチーフ。それにちなんで、路線バスの時刻表を貼ったスタンド看板が、しゃもじ型なのだ。
時刻表を見ると…例えば菱浦港から役場経由で豊田地区へ向かう豊田線は、1日6便のみ。本数は少ないが、島民の足としてバスは不可欠なものだ。運行会社は、隠岐海士交通。同社は路線バスのほか、観光バス、そしてタクシー事業も行っている。

「交通インフラの不便を解消して、お年寄りなど交通弱者の方々の助けになること。そして観光業としては外貨を獲得すること。地域の生活を支える一企業として、海士町の役に立ちたいと思っています」

静かにそう語るのは、海士交通の石倉功社長。高齢化が進むこの島では、買い物や銀行、診療所への通院、島外へ出るために港へ行くのにも、バスを必要とする高齢者が各地区にいる。
またタクシーは、観光客はもちろん住民の生活にも欠かせない。島には電車も運転代行サービスも無いので、遅くまでお酒を飲んだ晩にはタクシーのお世話になる人が多い。タクシー運転手は地元民の家はほぼ把握しているので、仮に居酒屋で泥酔しても、難なく家まで送り届けられる。そんな、頼りになる存在なのだ。

そもそも海士交通の歴史は、タクシーから始まった。

「父が大阪で個人タクシーをやっていました。そして島へ帰ってきたとき、町内に車が1台も無かった。オート三輪が2,3台あっただけだったそうです。それではやっぱり不便だから、タクシーを1台買ってきて、石倉タクシーを始めました。そこへ、本土の企業がバスを持ち込んで運行しだした。いわゆる外資です。それを見た父は、自分でどうしてもバスをやりたいと息巻いて、親戚から猛反対を受けつつも、バスを買い上げてバス事業を始めた。路線バス2台からスタートして、さらに観光用の貸し切りバスもやって…結果、一般旅客運送事業のすべてをやるようになりました」

一度は東京に住んでも、やっぱり海士町が好き

石倉さんが海士交通に入社したのは、平成8年4月のこと。前職は東京で音楽業界の某メーカーの子会社に勤めていたが、心機一転Uターンした。会社では事務員からスタートして、タクシー乗務、バス乗務、経理も経験。平成11年、父親である先代社長が亡くなったことを機に会社を継承し、30歳の若さで現職に就いた。

「実は会社の後ろが自宅です。社員の皆さんには子どもの頃から日々かまってもらってた。路線バスに無賃乗車させてもらって、一日中バスでぐるぐるぐるぐる…ヤクルト1本もらってずっとバスに乗ってたり(笑)。当時はすごくバス需要があって、朝から晩まで利用客がいましたね。一度は東京に出て働きましたが、東京は遊ぶには最高だけど住むとこじゃないよなーと感じていました。将来的に家庭をもって子育てするなら、星が見えて、青い海が見えて、子どもたちに草や土を踏ませて、春夏には虫取りにいって…そういうのがいいなって。根が田舎者だったんでしょうね。だから帰ってきました」

やっぱり島がいい。そんな想いで帰ってきた石倉さんに、島暮らしの魅力を聞いてみた。

「不便は限りなく不便ですよ(笑)。でもそれを上手に自分のものにしてしまえばいい。海士町が掲げている『ないものはない』という考え方が肝なのかな。これが島のリズムなんだよ、と受け入れてしまえばそれがベストの生活になる。あとは人ですね。東京だと隣の家のことは全く気にしないけど、この島だと、2、3日顔を見ないだけで、どうしたよ~?ってやって来る。それをプライバシーの侵害とか言っちゃう人には住みにくい環境だけど、違う見方もあるでしょう。例えば心臓発作で倒れた時に、近所のおせっかいとか配慮の気持ちのおかげで命が助かることもじゅうぶんあり得るわけでね。ただ、合う・合わないはあるよね」

住人、そして観光客。島内の人の巡りを良くしたい

会社を継いだ当初は「自社のことで必死で、まちづくりのことまで考える余裕がなかった」と振り返る。しかし社長として島内の各企業や団体と繫がりが増え、地域に根差し、趣味やスポーツなど小さなコミュニティにいくつも属しながら暮らしを深めていく中で、自然と島全体のことを考えるようになった。
現在は、海士町観光協会の副会長や隠岐国商工会の会長も兼務しており、主に産業の視点から、島の未来を考えていく立場にある。

「2008年に、海士町の総振(※第4次海士町総合振興計画「島の幸福論」2009-2018)の策定に参加させてもらいました。この会議で初めて、島のことについて他の人と意見をぶつけあう経験をした。これがまちづくりを考えるようになったきっかけですね。その少し前に夕張ショック(※2006年、北海道夕張市が財政破綻した衝撃的なニュース)もあり、海士町も他人事ではなく…このまま人口がどんどん減って2000人を割るようなことになったら町の経済がストップしてしまう、このままだとふるさとがなくなっちゃうんじゃないか…ってすごい危機感をおぼえたんです。もっと賑わいをつくって、その中から産業を創出して、雇用を増やして、人口も増やしていかなきゃだめだって」

いま、石倉さんの中で重要なキーワードは、“賑わいをつくる” 。そして “人を巡らせる” 。そのための挑戦を続けているところだ。

「観光バスが動かないことには宿も繁盛しないし、お土産業も繁盛しない。人が通り過ぎるだけじゃ全く外貨が落ちないんです。港完結の団体輸送だけじゃなく、港から島中へ人を引き込めるようにしたい。例えば、隠岐神社の鳥居の前に昔からあった観光休憩所を『つなかけ』というお土産屋さんにリニューアルしたんです。運営は隠岐桜風舎で、私は取締役をやらせてもらっています。あの場所をもっと賑やかにしていきたい。大袈裟に言っちゃうと、外貨獲得のためには、島内まるごと海士町アトラクションっていうイメージを実現したいんです。路線バス、タクシー、貸し切りバス、この3つは客層がぜんぶ違う。それらが人や活気を循環させて、島がディズニーランド化したら面白いよね。観光バスが1本の川の本流であるとしたら、支流を町内中にあちこち張り巡らせて、100円でも200円でも町内に落ちるようにできたらいい。そこから、創業や雇用が生まれる」

町内の流動人口を回せる仕組みづくり。
人を運ぶだけではなく、住民どうし、そして観光客と住民とのコミュニケーションも繋ぐ。観光スポットを繋ぎ、周辺のアクティビティと繋ぎ、地元のプレイヤーどうしを繋ぎ…
宿、飲食店、交流施設。繋いでみて初めて生まれる価値、動き出すサービスや企画もあるだろう。

交通インフラの立場から、島の総合力を底上げするような存在に。石倉社長のビジョンは壮大で、“ディズニーランド化” への道のりは簡単ではないだろうが、島内を人が巡る仕組みづくりは海士交通なしでは実現しない、ということは確かだ。

「そういうビジョンに賛同してくれる人が来てくれたら嬉しい。とりあえず最初は、ここで生活してみたいな~というシンプルな気持ちからでいいと思います。おいしい空気吸って、美味いもん食べて、サラリーをもらって、スタートはそれで十分。
あと言いたいのは、来る人には見た目じゃなくて業務の中で個性を出してほしい。観光客相手の仕事では、喋り方や伝え方で必ず個性が出てきます。要所要所の案内だけはきっちリしながら、限られた時間の中でどういうふうにお客さんに満足していただけるか、という工夫の部分でその人らしさが出てくるといいですね。
まあ、とにかく暮らすことからです。地に足つけて、徐々にやりたいことを見つけて、いつか創業するのもいいかもしれない。まずは、一緒に海士で生活しましょう」(笑)

 

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飯古建設(有)

この島で、紫色のダンプカーを見ない日は無い、と言っても過言ではない。
車体には「飯古建設」の文字。海士町で唯一の総合建設会社、飯古建設有限会社のことだ。

飯古建設は、1960(昭和35)年創業。以来60年以上にわたり、港湾や防波堤、橋、道路の建設など、島民の生活基盤を整える重要な役割を担う。現在は、主軸の建設業のほか漁業と畜産業も手がけ、島ならではの多角経営を行っているのが大きな特徴だ。

多角化が進んだのは、「海や山にまつわる地元の産業が元気だからこそ、自分たちの建設業がある」という想いが強かった前社長(故・田仲寿夫さん)の決断による。
漁業に参入したのは1996(平成8)年。当時、定置網漁の経営が赤字で苦戦していた漁協から事業を買い取ってくれないかと要請され、引き受けた。社内に定置網事業部を立ち上げ、今も社員9人が定置網漁師として働いている。さらに2004(平成16)年には、農業特区の認定を受けて有限会社隠岐潮風ファームを設立し、畜産業もスタート。この大胆な挑戦から、海士町のブランド黒毛和牛「隠岐牛」は生まれた。潮風ファームが仔牛の繁殖から肥育まで島内で一貫生産する隠岐牛は、今や東京食肉市場でも高い評価を得ている。

現在の代表取締役、飯古晴二社長はこう語る。

「平成5年、私の父親である1代目社長が引退し、田仲社長が2代目に就任した時から事業の多角化が始まりました。私は大学卒業後ずっと松江の建設会社で働いてきましたが、平成12年にUターン。飯古建設に入社して、まず定置網事業をしていることにビックリ。さらに畜産を始めてまたビックリ。経営は大丈夫なの?と懐疑的なところも正直ありました。でも私自身が社長になってからは、徐々に考え方が変わったんです。島にとっての重要な課題から目を背けず、各事業の社員たちと一緒に悩みながらやっていこう、というふうに向き合い方を変えた感じ。今は、定置網も畜産も、踏ん張って続けていかねばという強い気持ちが芽生えていますね。そのためにも、まず盤石にしなくてはならないのが、島のインフラを造り支える土木部門、当社の工務部です。なのに…そこに、人が足りていません!」

■人材育成のための費用と手間は惜しまない

飯古建設工務部の仕事は、道路や河川、橋、ダムを造ることだけではない。農道や用排水路などの圃場整備から、水道配管や排水の工事、倒木撤去や除雪まで、とにかく幅広く対応する。そのおかげで、地元住民の暮らしは便利・安全に保たれている。

工務部で働く宇野さんは、結婚を機に18歳で海士町へ移住した。19歳で飯古建設に入社し、今6年目。同じ島根県の平田(出雲市)出身だ。

「家族の紹介でこの会社を知りました。平田では飲食業の経験があったので、移住して最初の1年は民宿で働いていましたが、敢えて料理とは違うことにチャレンジしたくなって飯古の求人に応募しました。海が好きで船舶免許を持っているので、港湾に関わる仕事も楽しそうだなと思って」

料理から土木へ、かなり大胆なチェンジ。建設業の経験はゼロだったが、必要なことはすべて現場で教わったという。資格取得や技術向上のためのサポートが手厚いのは、未経験者にとってはありがたい。

「最初に入った現場はダムでした。土砂崩れを防止する砂防ダムの建設などを約2年。当然できないことだらけで、困ることも多かったけど、重機など必要な資格は会社の支援で取得しました。現場ではチームで働きますが、前の班長さんが色々と優しく指導してくれたことで自分は成長できました。難しくてなかなか分からない技術は、仕事が終わってからでも教えてもらったりしてましたね。地元出身の方で、今は他所に出ているんですが…最近久しぶりに会ったら『成長したな!』って言ってもらえて、嬉しかった。その方から僕が教わったことを、今、年下の子たちにも教えています」

ダム建設の後、宇野さんは港湾の現場へ。テトラポットを作ったり、岸壁だったところを壊して石を入れ、海水浴場(人口海浜)を整備したりする仕事だ。直近では、いま、御波区で新しい海水浴場を造っている。

未経験者への支援、人材育成のための費用と手間は惜しまない。そう、飯古社長は断言する。

「うちね、土木の経験があって入社してきた人、実はほとんどいないんですよ。9割9分は自社で教えて、一から勉強してもらってる。土木施工管理、造園、舗装、配管、現場監督も。2トン・4トン・10トンダンプ、生コン車、バックホー、クレーン…それらの資格や免許、全て金銭的なサポートをして取ってもらっている。今クレーンに乗れる人は10人近くいるんじゃないですかね。高専や工業高校、工学部出身とか関係ないので、誰でも来て下さい!と言いたい。その方の素質やセンスをこちらで判断させてもらって、相談しながら、色んなことをやりながら身につけていってもらいます。とにかくうちは本土と違って整備も自社でやらないといけないから、整備職も求人してます。整備士だって未経験でもいい。学びたい気持ちがあるなら資金援助します。今は腕の良い整備士さんが高齢化していてね、それくらい、次世代のための人材育成を重要視しているんですよ」

熟練の班長クラスが軒並み高齢化している今こそ、気概と技術を受け継ぐ若い人材が必要なのだ。働く側としては、絶好のタイミングであり格好のチャンスなはず。そう、ヤル気さえあれば…。

「若い人に入ってもらって、ベテランが健在なうちに彼らから教わってほしい。今ならまだ間に合う!」と、社長の鼻息は荒い。

仕事と暮らしのベストバランスを探る

そんな恵まれた環境で経験を積み、技術を磨いてきた宇野さん。どんな点にやりがいを感じているのだろうか。

「例えばビーチの仕事は、幼稚園の子たちが安全に海遊びを楽しめる場所をつくるということ。子どもたち含め、住んでいる皆さんが怪我なく安心安全で過ごせるよう、少しでも綺麗に造ろう。それを日々心がけてやっています。長く残るものですし、完成したときの喜びは、以前やっていた料理の仕事とはまた違った感動がありますね。災害を防ぐ構造物は、造ってもらえて安心したよと言ってもらえることもある。住みやすさに直結してるんですよね」

島民の命に関わる、責任ある仕事だ。とは言え現場はとても働きやすいと宇野さんは笑う。
会社の上司とは、休みの日にプライベートでも遊んだり、一緒に食事をすることもある。世代を超えた交流が、仕事で活きることも多い。

「年の差がけっこうある場合も、そう感じさせない対応をしてくれる人が多くて助かります。普段からコミュニケーションを取れていると、現場でも若い側の意見を聞いてくれますし。うちの会社は、社長のノリのせいか(?)、イベントも好きだし、仕事でもプライベートでも楽しく付き合おうっていう雰囲気があると思います」

宇野さんの順調な成長と仕事ぶりは、暮らしの充実とも関係がありそうだ。

「休日の楽しみは、海遊びが多いかな。夏は潜ったり、ジェットスキーで遊んだり。船釣りも好きです。釣りは、やったことがなくても隠岐へ来て釣り好きになる人が多いみたいです。コンビニ無い、スーパー無い、夜は7時や8時でお店が閉まるし、不便を感じることもあるけど、別にそれはそれで構わない。慣れれば時間の感覚も違ってくる。無いなら無いなりに、ここはここなりの楽しみ方ができます。期待しすぎず気軽に来て、まずはのんびりやってみてもいいんじゃないかなと思いますね」

バランスよく、力まず。無いことを受け入れて有るものを楽しむ、島暮らし。宇野さんはひとつのお手本と言えそう。

「UターンもIターンも大歓迎。仕事でも暮らしでも、何か悩みがあったら俺んとこに相談に来いよ!という気持ちはいつもありますよ」という飯古社長の言葉も心強い。

「海士町に来ることを迷っている方は、とにかく一度来てもらえたら、意外と生活しやすいと感じるんじゃないかな。地元民の喋り方とか言葉使いは、ちょっとキツいと感じるかもしれないけど、それは人情があるからこそ。実は愛情こもってるんですよ。それが海士町流だと思ってほしい」

島のため、飯古がやらねば誰がやる。だからこそ…

2021年8月の豪雨で、島内では各地で被害が出た。崖が崩れ、家屋スレスレまで土砂が迫ってきた現場もあり、飯古の社員は災害復旧に奔走した。また今年、2022年7月の豪雨災害でも同様の事態に…。

「もともと予定していた工事現場よりも災害復旧工事のほうが多かったかもしれない。そんな時も、島のあちこちの復旧を順番に一つずつ、コツコツやっていくしかない。うちのような地元の会社にしかできないことだし、そういう草の根のところから飯古建設は成り立っていると思っています」

現在の飯古建設には課題が多い。イコール、使命が多いということ。そして、課題は伸びしろでもある。島になくてはならない会社のトップが叫ぶ。

「島のためにやる。飯古がやる。だからこそ、この土木部門に人がもっと必要なんです」(飯古社長)

 

飯古建設(有)の動画を見る

 

株式会社 川本サッシ

「最初はみんな経験したことがないけん。大丈夫。妻も全然サッシの仕事なんてしたことがなかったけど、2〜3年連れて回っていたらできるようになったから」
秋晴れの中、お客様のカーポートの屋根を取り付ける作業を、脚立に乗った川本夫婦が並んでやっていた。「私は職人じゃないんだけど」と隣で笑う妻の歩さん。海士町で生まれ育った幼馴染でもある二人は、Uターン後に継いだ家業で生計を立てている。島の建設業の一端を担う仕事にやりがいを感じながら、島での日々も充実した様子で、いつも笑顔が絶えない。

生まれ育った町で働く

「もともとこの家が建っていたんだけど、事務所に改築して、裏に家を建てたんです。どうせなら広い事務所にしようと思ってね」

木造の広々した事務所でインタビューに答えてくれた川本さん。故郷に戻って11年。創業者である父から代が変わったのは3年前で、現在はこの事務所に両親と、妻と4人の役員体制でデスクを囲んでいる。

建築系の専門学校を卒業した頃からなんとなく将来島で働くことを決めていた。

「大阪に出たこともあるけど、都会はやっぱり自分には合わんなぁとわかりました。いずれ戻ってこようと思ってはいたけど、それが遅いか早いかの問題でした」

父の勧めもあって、そのまま帰らず島外で何かを身につけてから帰るため、松江市の同業種の工事員として5年ほど働いて島に戻った。

島の仕事は、都会と違って「顔が見える」と言い、そこが川本さんは好きだという。

「元請けさんや大工さんもみんな協力してくれるし、すごく仕事しやすいですよ。本土にいると、建築の工程で、自分の職種しか関わることがなかった。関係ない人はほとんど顔も知らなかったけど、海士町は真逆。現場行くとみんな知った顔で、困ったことあったらちょっとお願いだから手伝ってとか、気軽に言える関係性がいいかなぁ」

可能性はいくらでもある

仕事は多岐に渡る。

「松江にいた時はシャッターとスチールのドアくらいしか扱ったことがなかった。今はやることの幅がとても広いですね」という。

事業内容は、基本的には鋼製建具と言われるもので、アルミサッシ、シャッター、その他付随するもの、鍵や自動ドア、ガラス工事が主だ。

「基本的には隠岐島内の工務店さんと、一般顧客は島前地区の西之島、知夫も回っています。今は妻と二人で現場を回っていて、なんとか仕事が追いつくくらいですね」

島を愛する一人として、自分たちの世代、そのまた次の世代のことを考える。業界の職人も年齢層が高くなっていて、「働き盛りの30代前後をもっと増やしていきたい」と川本さん。島の仕事は、近いネットワークのなかで役割分担がきちんと分かれていて、それを維持していくにはスムーズな世代交代が求められていて、建設業界の仕事の魅力をもっと伝えることが必要と感じている。

「隠岐地区の建設業界がちゃんと回れるようにその一員としてやっていけたらなぁと言うのしかない。自分だけ儲けてやるとか、本当は儲けんといけんけど、それより前にみんなと協力してやらんと、儲けも出てこんし、仕事も生まれない。それが一番大事だと思う」

時代の変化とともに、変わることもある。そこに新たな可能性があると川本さんは話す。最近でいえば、以前は玄関取替などで下枠の補修を左官屋さんに頼んでしてもらっていたモルタル補修も、自分たちでやれることはやるようになった。

「広く浅くなんでもすることも必要になってくるかもしれない。この職種に拘ってないわけじゃないけど、他にも違う業種も攻めて行けばいいんじゃないかと思っています。海士町の中でも手薄な業種はあって、その職人さんが来てくれるなら一番それがいいんじゃないかなと思う。内装工事やペンキ塗装、基礎工事も元請けさん自分たちでやるからいいけど、個人とかそこまで手が回らないと思うし、そこら辺もやれるならそこに向かっても面白いと思っています」

父が現場を離れてから、大変な時期もあったが妻の歩さんが徐々に仕事を覚えてくれ、多くの依頼に応えていくことができている。「もっと人がいたら、もっと新しいことが生まれるかもしれない」。内装など事業拡大を思い描いている。

暮らしも充実できる島

「最初は帰るつもりはなかったんですけど、帰ってみたら案外楽しく暮らしています」と歩さん。大きなショッピングセンターがあるわけでもないが、人同士のつながりがあるおかげで子育てもしやすく、海や山がすぐ近くにある海士町の環境は大人になった今だからその良さがわかるという。

「私はみんなが知り合いというわけでもなかったけど、結婚したら川本が自営業だからどこ行っても川本の奥さんでしょうと言ってもらえるし、みんな話しかけてくれて楽しいなと。海も綺麗だしね。最近マリンスポーツもしている、バナナボートやサップしたりしています」

棚には、海士町ののどかで壮大な自然の中で、3人の子共たちと一緒に写った家族写真が飾ってあった。

「海士町に、うちの会社に来てくれるなら、まず島暮らしに興味がある人がいいなぁ。魚釣りが好きでもいいし、海が好きな人。あとは毎日ちゃんと出てくれる人。仕事のことは心配せんでも大丈夫ですから」と胸を張る川本さん。

アットホームな雰囲気の川本サッシは、まさに島の身近な暮らしを支える会社の一つだ。

 

>株式会社川本サッシの動画を見る

中畑建築

島中から頼られる大工さんが、
共に働く仲間を募集

「強面というよりも、危険な匂いがすると言われます(笑)。こんな感じですが、商工会の中でもいじられ役になることが多いですね。後輩が僕をいじると盛り上がるので、そういうのも受け入れています」
作業着はサングラスをかけている中畑さん。一見すると怖そうに見えるが、話してみるとそんなことはなく、むしろサングラスの下の大きな目はチャームポイントになるくらいだ。「小さい頃からずっと『みっちゃん』なんで、もうそれで通っていますね」。そう話す笑顔を見ると、島の中で愛されているのがなんとなく伝わってくる気がした。

生まれ育った島で、父を継いで大工になった中畑さん。その丁寧な仕事が評判を呼び、住まいのことなら大工の「みっちゃん」を頼る人は多い。

一度は出た島での大工仕事が面白くなった

「もともと親父が大工をしていたんです。小さい頃は親父が家で木を加工するところは見ていたけどそこまで(大工に)興味はなくて。すごいなとかそういう感情もなく、また親父が木を削っているなぁと思っていたくらい。でも、親から継いでほしいというプレッシャーはあって、なんとなく大工になるんだろうなあと思っていました」

一時は料理人に憧れたが諦め、建築の学校で学ぶために大阪に出た。「勉強もせずに遊んでいましたね」と当時を振り返るが、その頃パチンコ屋のバイトをしていたといい、そこで出会った友人に誘われて建設業界で働くようになった。

島に戻ってきたのは、約15年前。30歳になろうとしていた頃だった。

「親父の仕事が忙しくて手伝いに帰ってこられないかと相談があって、働いていたところに少しの期間、実家に帰らせてくれと言ったんですね。半年くらいだったかな。その間、親父の仕事を手伝いながら、大阪でやっていることとこっちでやっていることが変わらなくて、どっちも一緒だなぁと思ったんです」

実際、働いてみると、島での大工仕事が面白くなった。

「ものができていく、手をかけるほど、目に見えて綺麗になっていく。木をうまく合わせていくとか、丁寧にやればやるほど綺麗になっていくんだなぁと。やりがいを感じるようになりました」

抱えきれないほどのリフォーム需要

5年ほど父親と一緒に働いたが、今は一人親方であちこちの現場に引っ張りだこ。仕事は想像以上に多く、ありがたいことに忙しい毎日があっという間に過ぎていくという。

「全然追いつかない。やり終えてもまた次の依頼があって、溜まる一方ですね。地元の年配の人からは『暇になってからでいいよ』と言ってくれるんでそれに甘えちゃって…。お客さんも2年、3年待ってもらっているところもあるんです(笑)」

島内の住宅事情をいえば、30〜40年前が建設ラッシュ。それから住宅の耐性を考えるとちょうど傷みも出てくるところであり、また世代が変わるタイミングでのライフスタイルの変化に伴ったリフォームの依頼が増加している。特に浴室とかキッチン周りといった水回り関係が多いという。

「昔、あんたのお父さんに建ててもらったという家もあったりしますよ。海士町では、この家は代々この大工さんが担当しているみたいなつながりがずっとありますが、それ以外にも同世代のつながりから新しいお客さんも増えたりしています」

お客さんも、仕事仲間たちにも、島特有の距離感やあたたかな関係性がある。中畑さんはそこが好きだそうだ。

「地元の人はおおらかというか、ある程度融通を利かせてくれるというか、余裕を持って仕事ができる。用事があって1〜2時間抜けるわ、と言っても「いいよいいよ」と。緩いところもあってそこがいいんですよ」

町を歩いていたり、飲み屋にいけば知った顔と出会って、そこから仕事を頼まれることも多い。

「飲み屋で会ってちょっと『今度家のここを見てくれ』とかも言われるんですけど、翌朝覚えてなかったりします(笑)。たまたま出会った時に『言おうと思っていたんだ』とかもあるし、そういうお客さんとの距離感なんですよね」

島の人にとって、それほど身近に住まいのことを相談できるのが中畑さんであり、いわば海士町の大工なのだ。建築関係の事業者は現在、中畑建築を含めて6〜7社ほどある。中畑さん曰く、それぞれが公共工事を主に請け負う会社もあれば、個人客を相手にしている会社もあって「みんな忙しそうにしている」という。「でも、今一番若い大工が20代後半くらいで、30代はいないし、僕の上も50代はいないですからね。その辺は気にはしています」。仕事は尽きないだけに、その担い手がきちんと続いていくようにしないといけないと自覚しているという。

何よりもお客さんとの対話を大切に

「一番大切にしているのが、施主さんとしっかりコミュニケーションを取ること。お客さんの思いや求める条件を100パーセント形にできるように話をつめていきたいといつも思っています。僕らの仕事は、最初の打ち合わせが大事。出来上がったものが『こんなの求めてない』と言われてもダメですし、そこはお互いの信頼関係にもつながりますから」

お客さんからの要望を聞きつつ、建材や工法など専門的な視点から見た丁寧な説明を心がけているという。

「材料一つとってもメリット、デメリットありますから、そこをちゃんと理解してもらわないと。安い建材でいいと言われて使っても、その分劣化も早かったとなると、こちらの説明不足だったということになります。例えば、床材は張り合わせたものだと冬場は冷たいとか。値は貼るけど本物の木材の方が暖かいですよ、とかメリットもリスクも伝えます」

仕事に対してはどこまでも真面目な人。売り上げや自分勝手な仕事のやり方を良しとはせず、大工としてお客さんに何を提供できるかを大切にしている。それは仕事に対する姿勢にも現れる。

「僕は、綺麗に仕事をしたいと思っているんですね。作業している周りに道具が散らかったりしていたりも嫌だから、使ったものは置きっぱなしにせずに片付けます。大阪で建設業をやっていた時、師匠が綺麗好きで、そこで仕込まれたんですよね。仕事ではお客さんがいらっしゃる現場が多いので、綺麗に仕事している方が見栄えもいいし、その方が気持ちもいいしね」

その人の仕事ぶりは道具を大事にするかとか、ちょっとしたことに全て現れる。優しい人柄がわかる会話のやりとりやきちんと整頓された工場を見れば、中畑さんがどういう大工かがわかる気がした。

女性も歓迎。今にない新しい感性を求める

海士町で長く職人として働いてきた自負がある一方、一方で、自分にはない新しいものを取り入れていきたいという中畑さん。一人では抱えきれない仕事をこなしていきたいということもあるが、従業員を雇うことで良い意味で変化にも期待している。

「そうですね、器用な人とか、社交的であるとか。女性がきてくれるのも嬉しい。最近は、女性の大工も増えてきていますし、女性目線の柔らかい感じの仕上がりとか、そういうのも提供できたらいいかなと思っています」

Iターン、Uターンの人も多い海士町だけに、従来のやり方ではあまりなかった要望も増えてきており、それらに答えていく必要があるとも感じている。

「いろんなジャンルを受けられる事業所でありたいし、お客さんそれぞれ色があるので、そこに対応できるスキルは身につけておきたいですね。一緒に働きながら、島で培った僕の感覚ややり方も伝えるし、逆に、思っていることは伝えてもらいたい。そんなやりとりができたら、楽しく仕事できるんじゃないかなと思っています」

職人として技術をつけたい人、自分の感性を活かすことに興味がある人なら即戦力かどうかは大事ではないと中畑さん。

「経験者が来てくれればそれは嬉しいけど、経験はそこまで求めていないかな。ど素人でもやれることは結構あるし、やる気さえあればすぐに覚えてもらうこともある。一応、職人の世界では5年が一括りになっているけど、3年くらいガッツリやってもらえたら、ある程度の仕事はできるようになるんじゃないかなと思う。安心して、海士町にきてもらえたら」

 

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株式会社 ゆうでん

島では珍しいクールな外観の建物に、爽やかなライトブルーの「YUDEN」ロゴ。
この事務所を構えるゆうでんは、住宅や施設の給排水の工事、空調設備の施工を行う会社だ。

社長の波多誠さんは海士町出身で、家電の販売・修理をする電気屋の次男坊として生まれた。幼い頃から勉強よりも身体を動かすほうが好きで、技術を身につけてものづくり系の仕事に就こうと、島根県立松江工業高校(松江市)に進学する道を選んだ。

「でもまさか、卒業してすぐUターンするとは夢にも思わんかったですけど…。実家の電気屋が大変で、即戦力として呼び戻されました。そこからは、がむしゃらに働いてきましたね」

そして2010年、父親の個人事業だった家業を株式会社化し、事業を継承して代表取締役に就任。島民に浸透していた「ゆうでん」の社名はそのまま残し、水道まわり、エアコン工事等まで守備範囲を広げて、株式会社ゆうでんとして新たなスタートを切った。

「現在の社員は、この事務所(給排水・空調関連)に4名。それと最近始めた板金塗装業に2名。年齢は40歳から47歳です。設置や配管などの施工業のほうは、公共の施設が7割、残り3割が民間の家屋という感じ。海士町に住む全員が顧客なので、スタッフの人数的にはギリギリ。みんな常にどこかの現場に出ていて、日中は事務所に誰もいない状態ですね」

ゆうでんの社員は全員40代。若者というわけではない…というかむしろ皆おっさんなのだが、いたずら好きの少年のような面影を残す大人ばかりだ。

「良い意味で、遊びやさんっていうのかな。まさに “類は友を呼ぶ” で、いつの間にかこんな集まりになってた。子どもの頃にしてた遊びを大人になってもやってるやつらばかりです。遊ぶだけじゃなくて、仕事と遊びの切り替えが上手いってことですよ。以前は、昼過ぎに仕事が終わればみんなで魚釣りに行ってた。最近はよくラジコンで遊んでます。ラジコン好きも、原点はものづくり。子どもの頃に夢中でやってたプラモデル作りが、この世界に入る原点になってるんだろうね、今思うと」

島の挑戦に、自分たちも関わりたい

自社だけではなく島全体のことを考える視点を持っていたい、と言う波多さん。
島の未来のために自分には何ができるか。この問いに正面から向き合うようになったのは、2015年に立ち上がった「明日の海士をつくる会」、通称「あすあま」に参加したことがきっかけだった。

あすあまとは、「まち・ひと・しごと」創生総合戦略の策定と実現を目指すために結成された、海士町住民による会議のこと。観光や福祉、教育、漁業、農業、建設業や飲食業といった多様な分野の民間の有志らと町役場職員が、共に議論を重ねていた。

「あすあまでは、この先50年どうすんだっていうことをみんなで考えてました。そこに参加したことで、海士町の未来のためにはアレが必要だ、コレは残さないといけない、でもコレはこういうふうに形を変えないといけないとか、そういうことを常に意識するようになった。自分や自社のアクションが巡り巡って町のためになる、そういう“循環” の意味が分かるようになったり、島に昔からある工場や、地域の伝統など、なりゆきに任せたら失われてしまう “大事なもの” を守るために『今、手を打たねば』と感じられるようになったり。自分の中では大きな変化でした」

ゆうでんは、海士町複業協同組合(以下、複業組合)の立ち上げに関わり、波多さんは発起人の5名に名を連ねている。複業組合は、海士町内の複数の事業者が連携し、季節ごとの仕事量に応じて組合職員を派遣する仕組みだ。年間を通じた雇用の創出と人材育成、ひいてはU・Iターンの促進を狙う、全国でも先進的な試みとして、2021年からスタートした。

「複業組合に関わったのは、当社の利益がどうとかメリットがあるとかじゃなくて、海士町全体としてそういう人の集め方も必要なんだろうなと納得できたからです。ゆうでんも、町のチャレンジの方向性と歩調をそろえることが必要だろうなと思って。実は、複業組合からの派遣はうちのような建設業では受け入れられないんだけど(※労働者派遣法の規定による)、たまたま今、農業をやりたい社員が1名いて、複業組合に協力してもらったら農業にも挑戦できるかもしれない。そういう事例をひとつ作ることができれば、複業組合の見え方もまた違ってくるはずだしね。…要は、種まきですよ。未来への」

長期的な視点での、島のためのアクション。最近始めた自動車の板金業も然りだ。
島で長く板金塗装を営んでいた会社の社長が、体調不良をきっかけに突然事業を閉めると言い出した時、波多さんは即、動いた。

「その時は、とりあえず工場をうちの会社に譲ってくれとだけ言ったんだけど…、でもよく考えたら、板金がなくなったら町にとってはかなりの損害。だって車をぶつけるだけでお金がどんどん本土へ出ていく。なんとか残したいと考えるようになりました。たまたま先輩に板金経験者がいて、先代とも親しい。だったら彼に工場を任せて、板金もうちの事業としてなんとか存続させようと、取り組み始めたところです」

信用を売る。それが俺たちの “ものづくり”

ものづくりと言っても、メーカーのように製品を作っているわけではない。
ゆうでんがつくる “もの”は、最初は目に見えない。家や施設が出来上がった後にも、その全容は見えない。彼らが提供するのは、裏側で働く仕組みや機能そのものだからだ。

「何かを選んだり買ったりするときって、普通はモノを見てから決めるだけど、俺らの仕事は最初はモノとして見えない。工事完了した後も、換気扇や蛇口とかの部分は見えてるんだけど、俺らがやったこと自体は単体ではとらえられないよね。床下や天井裏の配線や配管がどうなっているか、システムとしてその中にどのくらいの部品を使っているか、普通は見えないでしょ。つまり『信用』を売っているということ。例えば大工だったら家を見たら上手か下手か分かるけど、施工の良し悪しは、家を長く使ってみて初めて評価されるもの。問題なく使えることが当たり前だから、価値を感じてもらいづらいかもしれないけど…、日々の仕事をコツコツやって信用を積み上げていく、地道な商売なんですよ」

と言って笑いながらも少し誇らしげな波多さんと、周りでうなずく社員たち。
見えない部分も含めての、“ものづくり”。それは長年かけて築いた信用とプライドで出来ている。

職人集団ゆうでんの一員になるなら、施工関連の経験が有るに越したことは無い。だが、社長曰く「ものづくりに興味がある人なら経験は問わない、資格の有無も問わない」とのこと。年齢も特にこだわらず、資格取得のための費用は会社でサポートする方針だ。

どんな人材が欲しいかと聞くと、「ごんた!」と即答する。ごんたとは海士弁で、やんちゃな負けず嫌いのことだ。

「この業界は、職人としての自分の成長は退職するまでに完成しないし完結もしない。現状のスキルで満足する人はもう伸びないし、どんどん探究する人が伸びていく。だから、負けず嫌いなほうがおのずと良い方向へ行きやすいです。あと、島の生活は不便が多いから、精神的にも強くないとね」

…なるほど。ごんたなら、厳しい職人の世界でもしぶとく生き抜いていけそうだ。波多さん自身、筋金入りのごんたであると見た。

「あと、島暮らしをうまくやっていくコツは、すべてを楽しむことだと思う。で、楽しむために努力が必要。仕事も同じで、働く楽しさを味わうためには努力が必要だと思ってます。俺は楽しみたいから頑張るし、新しく来てくれる人にも、一緒に楽しもうと言いたい。俺ら地元民の言葉はきつく聞こえるし最初はサッパリわからんと思うけど(笑)まとめると…ごんたで、地道に努力できて、かつ、この島を楽しむことが出来る人は、ウエルカム!!ってことですね」

 

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株式会社 向山電気

「こんにちは、よろしくお願いします」。レジの奥から出てこられたのは、グレーのつなぎ姿にキャップを少し斜めに被った社長の向山勝彦さん。なんだか勝手にイメージしていた町の電気屋さんという感じではない。

「会社の制服っていうのも作ってないし、そういうのに縛られるのも好きじゃない。社員にも経費で払うから作業ができる好きな服を買ったらいいよと言っています」

良い意味で肩の力が抜けたラフさ。初対面だが懐かしい同級生に会ったような、なんだか親しみやすさを覚えた。

気付いたらいつの間にか電気屋に

店に入ると真ん中を境に、左は洋服店、右が電気屋という作りになっている。

「もともとは祖父母の代から店を始めていて、祖父が電気屋をやり、祖母が服屋をやっていたんです。それを電気屋は父が、服屋は母が継いで。そんな家に生まれたんですけど、子供ながらに電気屋になる!と言っていたのは小学生までだったかなぁ。特に継ごうという気持ちも正直なかったです」

忙しく働く親の背中が最初はかっこよく見えたが、段々と都会に目が向き、違う仕事に就きたくなる気持ち。

「医療事務の仕事とか、堅い仕事をしようと思っていたんですけど・・・。気付いたら、なぜかここにいる感じ」と笑い、首をかしげる。

転機は、大学を卒業する頃。父が体調を崩し、「長男だし」と店を継ぐことを決めた。岡山県倉敷市の家電量販店で3年間、販売やサービスをして働いた後、高校時代の同級生と結婚して25歳でUターン。子供の頃と、大人になって働くようになると、島の見え方もがらりと変わった。
「実際に帰ってきて、ほぼゼロからだったんで、何もわからない状態で大変でした。家電を売ることに関しては抵抗なかったけど、まず家電の修理はノータッチだったのでそれを覚えるのと、あと島の人の顔を覚えること。子供の頃は意識してなかったけど仕事になると最初はめちゃくちゃ覚える顔が多くて・・・。正直、必死でした(笑)」

島の電気屋も、昔は3つあったが今は2つに。「電気のことなら向山さんに」ということなのでしょう、忙しそうな父親を見てわかっていたつもりでも、その想像以上に仕事がたくさんあって驚いたそうです。

「こんな田舎で商売できるんかなぁと思うでしょう? せっかくならスローライフを楽しみながら働きたいと思っていたけど、とそれが蓋を開けてみて驚きました」

町の電気屋さんにはいろんな仕事が舞い込む。電池交換ができない、体温計の電池を換えてくれ、電球一個付け替えに来てくれんか・・・。小さな仕事から大きな仕事まで、町の人に頼りにされていると感じる瞬間でもある。

視点を変え、新しい事業に挑戦

「もともと自分は結構保守的なタイプなんで(笑)」。そんな風に言いながらも、家電販売をメインにした事業に、自分で勉強をしながら電気や水道工事まで幅を広げていった。同じ業態で事業を継続する会社が多い中、視点を変えて島にはない業務形態を作り出した。

「田舎の狭い世界で客商売をしていると、お客さんの動向も見えてきて、それを気にしすぎるようになった自分に気づきました。このままこうやって家電販売だけでずっとやっていくのかという思いもあって、だったら今はできなくても、違うことでも売り上げを作ればいいんじゃないかと思ったんです」

思い立ったら行動が早い向山さん。取れる資格は取ってみようと、電気工事や水道工事など5つほど資格を取得。動けば、何かを引き寄せるもの。事業を拡大するタイミングも向山さんにちょうど巡ってきた。

「いろいろな兼ね合いもあって、海士町に電気工事をする会社がいなくなったタイミングでうちが立ち上げたんで、順調に仕事が増えました。家電と少し違う方向を向きたかったんですけど、やってみたら工事の方が楽しいんですよね。お客さんと接する販売業だけでなく、黙々と作業に取り掛かるのも向いているんだと思います」

工事関係の仕事は、地元の大工や工務店から新築や改修の時に電気工事を請け負うことが多く、内線工事や時々水道工事まで行う。電池一個の販売から電気・水道工事までを請け負う懐の深さが今の向山電気の強みだ。

「本当に手が追いつかないくらい仕事をいただいています。すぐに対応できなくて断らざるを得ないこともあるほどで、正直、従業員が増えたら嬉しいです」。新しい体制を組み、事業を充実させていくことを目指している。

島で長く働いてほしい

今は、従業員1人と二人体制。4年目の宇野稔貴(としき)さんは、松江市から移住してきた26歳で、前職も工事の仕事をしていた。

「自分は人を縛るのも好きじゃないし、教えるのも得意じゃない。あまり干渉しすぎることもないし、本人がいいようにしてくれたらいいんじゃないかなぁ」と話す向山さんの隣で、「働きやすくさせてもらっています」と宇野さん。お互いどんな話をするんですか?と聞けば、「う〜ん、なんの話するかなぁ。二人ともアニメが好きなんで、今シーズンは何を見た?とか。そんな感じですよ」
少し歳の離れた友達のような会話。二人の絶妙な距離感が、この会社らしいところなのかもしれない。

「断っている工事をやっていくことが最優先。人が増えると、二人いれば3倍、4倍の力が出ると思うので、持てる現場が確実に増えますから。あと、仕事はもちろん、島暮らしにも慣れてほしいですね。海と山くらいでなんもないですけど、うちも小学生と保育園児の3人の子供たちが伸び伸びと育っていて、子育てにはいい場所だと思います」

父親の顔を覗かせる向山さん。窮屈だと感じていた人間関係も、子育てや仕事を通して今となっては安心感にもどこか繋がっているそう。

「お互いに知らないことはないですよね、多分どこに行っても。気が楽なのもありますし、多分なんかあった時にはそれがいい方向に向くんじゃないですかね。困った時に助けてもらうことは、将来絶対あると思っています。でも、そういう人間関係の狭さや距離感の近さはあるので、そこも含めて島に慣れて、長くいてくれると嬉しいですね」

取材の最後に、作業現場で島に1台しかない高所作業車の仕事を見せてもらった。12mまで伸ばせるはしごがついている。

「そんな高い仕事もそうないですけどね。いちばん伸ばしたのは、子供を乗せた時くらいかなぁ」

車の鍵には、娘さんが写ったキーホルダーが付いていた。向山さんはあまり多くを語らないが、なんだかんだと言って、家族のことも、地元のことも、従業員のことも、そして会社の未来のことも考えている。

 

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