北峯工務店

「うちは、民間工事も公共工事もやる、いわゆる総合建設会社なのでいろいろなことをやります。基礎工事から、ちょっとした工事は全て自分たちでできることはやる。とにかくこの島の建設業、建築業を紡いでいく、繋いでいく、そういう気持ちが強いです。地域の中で、建設業そのものを循環させていく。そんな会社を作っていきたいんですよ」
島に対する思いも強いからだろう、北峯さんの話は自社のことだけで終わらない。常に「島全体の建設業界をどうしていくか」が頭の中にある。

民間から公共工事まで、幅広い仕事を請け負う
だから今は「喉から手が出るほど人が欲しい」

「元々、社長(父)が個人の一人親方から始めて、その当時も忙しかったので人をすぐに雇うようになって、その当時は住宅工事を基本にしていました。資格を取り、建設業許可も取って会社化したのが、平成2〜4年くらいかな。そこから、公共工事も参入するようになりました」

施工事例:島前研修交流センター

もともとの民間住宅の仕事もしながら、時代とともに公共工事の案件も増加。受注金額の大きさは、町営住宅の建築や施設の改修といった公共工事が大きく、件数の割合としても6〜7割を占める。最近では空き家を宿に改修する仕事などもあり、島内で手広く仕事を請け負っていて、海士町だけでなく、島外でも仕事がある。現在、隠岐島全体として建設業界はどこも忙しく、担い手は「喉から手が出るほど欲しい」状態なのだという。

施工事例:海士町のキッチンスタジオ

「現在は、社員が5名と、アルバイトが数名。現場だけでなく、設計スタッフもおり、設計・施工一貫して請け負っています。ですが、やっぱり人手は常に増えたらいいなと思っていますね」

北峯さんは、島の建設業界が大事な時期にあるとみている。というのも、北峯さん自身が大阪から10年ほど前にUターンした時に、すでに業界で働く人の数や年齢構成がバランスを崩していた。これには20〜30年前に景気が悪化した際、多くの大工さんが建設業から撤退したことが関係しているという。

「私が隠岐島に帰ってきた時点で、現場の高齢化は進んでいました。これには危機感を感じ、できることをしなければいけないと思って、この10年の間に若い子の受け入れもしてきました。一方、熟練の職人さんが入ってくれることは難しく、そこが圧倒的に足りていないですね。今は60代の職人さんもおり、何とかやりくりできているが、先々考えるとなんとかしないといけない」

島の中の建設業者を循環させるハブとなり
同時に若い人材も育成

ここ数年で、島の建設業界の状況も変わって来ているという。
「このところ、海士町は内装屋さんが辞められたり、クロス屋さんが辞められたりしている。そうなると、島外から業者を呼ばないといけません。本土から職人さんに来てもらうと、建設費の高騰にもつながるし、地域で仕事をしていく人が育たなくなる。だから、建設業みんなで協力していかないといけないと思っています」

海士町には個人経営の職人も多い。

「総合建設業だからこそ、いろんな会社の状況も知っている。忙しくてもすぐに従業員を雇えないという状況もあると思うし、手に職を持つ人がうまく島の業界の輪に入ることができるように、協力できることはしたいですね」

島には60代以上の職人経験者がいて、40〜50代が比較的少ない。北峯工務店では現在、公共工事を進めるにあたり、施工管理技士の資格を持った人を即戦力として求めている。さらに島内で慢性的に不足している大工、左官職人も、熟練者がいれば採用していきたいという。

一方、人材不足に危機感を感じ、積極的に自社で若い人材を育ててきた。北峯さんは、関心があれば未経験も歓迎だという。
「今働いている若いスタッフは全員未経験者で、うちが初めて働く建築会社でした。全く違う職種からの転職や、学校を卒業して建設業で働きたいと入ってきた人もいますが、そのまま〝この道でやっていこう〟となってくれました。もともと家族経営から始まった会社なので、根付きやすいというか、アットホームな雰囲気があるのかもしれないですね。

今、30代が3人いるんですけど、みんな楽しく和気藹々と働いています。仕事としても公共工事の割合が増えていくのと同時に免許や資格を持っていることで仕事の幅が変わるから、それを取るためのサポートにも力を入れています」

自分の時間を大切にしながら
働くことができる海士町

「ないものはない」というキャッチフレーズを打ち出している海士町。都会に比べてないものもあるが、逆に都会にはない魅力があると北峯さんは言う。

「とにかく海が近く、自然が近い。自分も大阪から帰ってきた頃はよく釣りに行ったり、海水浴に行ったりもした。自然が好きな人は向いていると思いますよ」

都会で働いた経験のある北峯さんは、働き方や時間の流れも大きく違う海士町で、新たな人生の価値観に触れてほしいと話す。

「自分自身も大阪にいましたが、都会でバタバタと忙しい生活でした。通勤に30分や1時間、下手したら2時間もかかっていたのが、海士町では現場まで時間がかかるということもない。ほぼほぼ島内で仕事が完結し、朝早くから夜遅くまで働く、ということがないので、自分の時間を作りやすいというのは魅力的じゃないですかね。社員も自分の時間を楽しんでいるように見えます。

都会での生活は時間に追われて大変な面もある。自分の時間を持てないという方が、仕事もしつつ、趣味やプライベートの両面も充実した生き方ができる場所として、海士町を選んでもいいと思うんです。仕事は大切ですけど、それが全てということではないので」

北峯さんご自身の趣味を聞くと、「今は忙しくてできないけど」と前置きした上で、かつてはガンプラ作りに没頭し、市販の塗料に満足できず、オリジナルの色を自作していたというエピソードも聞かせてくれた。こうした趣味が細やかな仕事のバックボーンになっているのだろう。

途絶えない仕事に対しての人材不足という課題はあるものの、「忙しくて大変と思われがちだが、そんなことはない。ここならメリハリをつけながら働いてもらえると思います」と北峯さん。海士町の建設業界は、こんな働き方ができる場所なのだ。

>北峯工務店の動画を見る

隠岐海士交通株式会社

島のバス停には、大きなしゃもじが立っている。
海士町発祥の民謡「キンニャモニャ」は両手にしゃもじを持って踊ることから、しゃもじは海士町を象徴するモチーフ。それにちなんで、路線バスの時刻表を貼ったスタンド看板が、しゃもじ型なのだ。
時刻表を見ると…例えば菱浦港から役場経由で豊田地区へ向かう豊田線は、1日6便のみ。本数は少ないが、島民の足としてバスは不可欠なものだ。運行会社は、隠岐海士交通。同社は路線バスのほか、観光バス、そしてタクシー事業も行っている。

「交通インフラの不便を解消して、お年寄りなど交通弱者の方々の助けになること。そして観光業としては外貨を獲得すること。地域の生活を支える一企業として、海士町の役に立ちたいと思っています」

静かにそう語るのは、海士交通の石倉功社長。高齢化が進むこの島では、買い物や銀行、診療所への通院、島外へ出るために港へ行くのにも、バスを必要とする高齢者が各地区にいる。
またタクシーは、観光客はもちろん住民の生活にも欠かせない。島には電車も運転代行サービスも無いので、遅くまでお酒を飲んだ晩にはタクシーのお世話になる人が多い。タクシー運転手は地元民の家はほぼ把握しているので、仮に居酒屋で泥酔しても、難なく家まで送り届けられる。そんな、頼りになる存在なのだ。

そもそも海士交通の歴史は、タクシーから始まった。

「父が大阪で個人タクシーをやっていました。そして島へ帰ってきたとき、町内に車が1台も無かった。オート三輪が2,3台あっただけだったそうです。それではやっぱり不便だから、タクシーを1台買ってきて、石倉タクシーを始めました。そこへ、本土の企業がバスを持ち込んで運行しだした。いわゆる外資です。それを見た父は、自分でどうしてもバスをやりたいと息巻いて、親戚から猛反対を受けつつも、バスを買い上げてバス事業を始めた。路線バス2台からスタートして、さらに観光用の貸し切りバスもやって…結果、一般旅客運送事業のすべてをやるようになりました」

一度は東京に住んでも、やっぱり海士町が好き

石倉さんが海士交通に入社したのは、平成8年4月のこと。前職は東京で音楽業界の某メーカーの子会社に勤めていたが、心機一転Uターンした。会社では事務員からスタートして、タクシー乗務、バス乗務、経理も経験。平成11年、父親である先代社長が亡くなったことを機に会社を継承し、30歳の若さで現職に就いた。

「実は会社の後ろが自宅です。社員の皆さんには子どもの頃から日々かまってもらってた。路線バスに無賃乗車させてもらって、一日中バスでぐるぐるぐるぐる…ヤクルト1本もらってずっとバスに乗ってたり(笑)。当時はすごくバス需要があって、朝から晩まで利用客がいましたね。一度は東京に出て働きましたが、東京は遊ぶには最高だけど住むとこじゃないよなーと感じていました。将来的に家庭をもって子育てするなら、星が見えて、青い海が見えて、子どもたちに草や土を踏ませて、春夏には虫取りにいって…そういうのがいいなって。根が田舎者だったんでしょうね。だから帰ってきました」

やっぱり島がいい。そんな想いで帰ってきた石倉さんに、島暮らしの魅力を聞いてみた。

「不便は限りなく不便ですよ(笑)。でもそれを上手に自分のものにしてしまえばいい。海士町が掲げている『ないものはない』という考え方が肝なのかな。これが島のリズムなんだよ、と受け入れてしまえばそれがベストの生活になる。あとは人ですね。東京だと隣の家のことは全く気にしないけど、この島だと、2、3日顔を見ないだけで、どうしたよ~?ってやって来る。それをプライバシーの侵害とか言っちゃう人には住みにくい環境だけど、違う見方もあるでしょう。例えば心臓発作で倒れた時に、近所のおせっかいとか配慮の気持ちのおかげで命が助かることもじゅうぶんあり得るわけでね。ただ、合う・合わないはあるよね」

住人、そして観光客。島内の人の巡りを良くしたい

会社を継いだ当初は「自社のことで必死で、まちづくりのことまで考える余裕がなかった」と振り返る。しかし社長として島内の各企業や団体と繫がりが増え、地域に根差し、趣味やスポーツなど小さなコミュニティにいくつも属しながら暮らしを深めていく中で、自然と島全体のことを考えるようになった。
現在は、海士町観光協会の副会長や隠岐国商工会の会長も兼務しており、主に産業の視点から、島の未来を考えていく立場にある。

「2008年に、海士町の総振(※第4次海士町総合振興計画「島の幸福論」2009-2018)の策定に参加させてもらいました。この会議で初めて、島のことについて他の人と意見をぶつけあう経験をした。これがまちづくりを考えるようになったきっかけですね。その少し前に夕張ショック(※2006年、北海道夕張市が財政破綻した衝撃的なニュース)もあり、海士町も他人事ではなく…このまま人口がどんどん減って2000人を割るようなことになったら町の経済がストップしてしまう、このままだとふるさとがなくなっちゃうんじゃないか…ってすごい危機感をおぼえたんです。もっと賑わいをつくって、その中から産業を創出して、雇用を増やして、人口も増やしていかなきゃだめだって」

いま、石倉さんの中で重要なキーワードは、“賑わいをつくる” 。そして “人を巡らせる” 。そのための挑戦を続けているところだ。

「観光バスが動かないことには宿も繁盛しないし、お土産業も繁盛しない。人が通り過ぎるだけじゃ全く外貨が落ちないんです。港完結の団体輸送だけじゃなく、港から島中へ人を引き込めるようにしたい。例えば、隠岐神社の鳥居の前に昔からあった観光休憩所を『つなかけ』というお土産屋さんにリニューアルしたんです。運営は隠岐桜風舎で、私は取締役をやらせてもらっています。あの場所をもっと賑やかにしていきたい。大袈裟に言っちゃうと、外貨獲得のためには、島内まるごと海士町アトラクションっていうイメージを実現したいんです。路線バス、タクシー、貸し切りバス、この3つは客層がぜんぶ違う。それらが人や活気を循環させて、島がディズニーランド化したら面白いよね。観光バスが1本の川の本流であるとしたら、支流を町内中にあちこち張り巡らせて、100円でも200円でも町内に落ちるようにできたらいい。そこから、創業や雇用が生まれる」

町内の流動人口を回せる仕組みづくり。
人を運ぶだけではなく、住民どうし、そして観光客と住民とのコミュニケーションも繋ぐ。観光スポットを繋ぎ、周辺のアクティビティと繋ぎ、地元のプレイヤーどうしを繋ぎ…
宿、飲食店、交流施設。繋いでみて初めて生まれる価値、動き出すサービスや企画もあるだろう。

交通インフラの立場から、島の総合力を底上げするような存在に。石倉社長のビジョンは壮大で、“ディズニーランド化” への道のりは簡単ではないだろうが、島内を人が巡る仕組みづくりは海士交通なしでは実現しない、ということは確かだ。

「そういうビジョンに賛同してくれる人が来てくれたら嬉しい。とりあえず最初は、ここで生活してみたいな~というシンプルな気持ちからでいいと思います。おいしい空気吸って、美味いもん食べて、サラリーをもらって、スタートはそれで十分。
あと言いたいのは、来る人には見た目じゃなくて業務の中で個性を出してほしい。観光客相手の仕事では、喋り方や伝え方で必ず個性が出てきます。要所要所の案内だけはきっちリしながら、限られた時間の中でどういうふうにお客さんに満足していただけるか、という工夫の部分でその人らしさが出てくるといいですね。
まあ、とにかく暮らすことからです。地に足つけて、徐々にやりたいことを見つけて、いつか創業するのもいいかもしれない。まずは、一緒に海士で生活しましょう」(笑)

 

>隠岐海士交通株式会社の動画を見る

株式会社 川本サッシ

「最初はみんな経験したことがないけん。大丈夫。妻も全然サッシの仕事なんてしたことがなかったけど、2〜3年連れて回っていたらできるようになったから」
秋晴れの中、お客様のカーポートの屋根を取り付ける作業を、脚立に乗った川本夫婦が並んでやっていた。「私は職人じゃないんだけど」と隣で笑う妻の歩さん。海士町で生まれ育った幼馴染でもある二人は、Uターン後に継いだ家業で生計を立てている。島の建設業の一端を担う仕事にやりがいを感じながら、島での日々も充実した様子で、いつも笑顔が絶えない。

生まれ育った町で働く

「もともとこの家が建っていたんだけど、事務所に改築して、裏に家を建てたんです。どうせなら広い事務所にしようと思ってね」

木造の広々した事務所でインタビューに答えてくれた川本さん。故郷に戻って11年。創業者である父から代が変わったのは3年前で、現在はこの事務所に両親と、妻と4人の役員体制でデスクを囲んでいる。

建築系の専門学校を卒業した頃からなんとなく将来島で働くことを決めていた。

「大阪に出たこともあるけど、都会はやっぱり自分には合わんなぁとわかりました。いずれ戻ってこようと思ってはいたけど、それが遅いか早いかの問題でした」

父の勧めもあって、そのまま帰らず島外で何かを身につけてから帰るため、松江市の同業種の工事員として5年ほど働いて島に戻った。

島の仕事は、都会と違って「顔が見える」と言い、そこが川本さんは好きだという。

「元請けさんや大工さんもみんな協力してくれるし、すごく仕事しやすいですよ。本土にいると、建築の工程で、自分の職種しか関わることがなかった。関係ない人はほとんど顔も知らなかったけど、海士町は真逆。現場行くとみんな知った顔で、困ったことあったらちょっとお願いだから手伝ってとか、気軽に言える関係性がいいかなぁ」

可能性はいくらでもある

仕事は多岐に渡る。

「松江にいた時はシャッターとスチールのドアくらいしか扱ったことがなかった。今はやることの幅がとても広いですね」という。

事業内容は、基本的には鋼製建具と言われるもので、アルミサッシ、シャッター、その他付随するもの、鍵や自動ドア、ガラス工事が主だ。

「基本的には隠岐島内の工務店さんと、一般顧客は島前地区の西之島、知夫も回っています。今は妻と二人で現場を回っていて、なんとか仕事が追いつくくらいですね」

島を愛する一人として、自分たちの世代、そのまた次の世代のことを考える。業界の職人も年齢層が高くなっていて、「働き盛りの30代前後をもっと増やしていきたい」と川本さん。島の仕事は、近いネットワークのなかで役割分担がきちんと分かれていて、それを維持していくにはスムーズな世代交代が求められていて、建設業界の仕事の魅力をもっと伝えることが必要と感じている。

「隠岐地区の建設業界がちゃんと回れるようにその一員としてやっていけたらなぁと言うのしかない。自分だけ儲けてやるとか、本当は儲けんといけんけど、それより前にみんなと協力してやらんと、儲けも出てこんし、仕事も生まれない。それが一番大事だと思う」

時代の変化とともに、変わることもある。そこに新たな可能性があると川本さんは話す。最近でいえば、以前は玄関取替などで下枠の補修を左官屋さんに頼んでしてもらっていたモルタル補修も、自分たちでやれることはやるようになった。

「広く浅くなんでもすることも必要になってくるかもしれない。この職種に拘ってないわけじゃないけど、他にも違う業種も攻めて行けばいいんじゃないかと思っています。海士町の中でも手薄な業種はあって、その職人さんが来てくれるなら一番それがいいんじゃないかなと思う。内装工事やペンキ塗装、基礎工事も元請けさん自分たちでやるからいいけど、個人とかそこまで手が回らないと思うし、そこら辺もやれるならそこに向かっても面白いと思っています」

父が現場を離れてから、大変な時期もあったが妻の歩さんが徐々に仕事を覚えてくれ、多くの依頼に応えていくことができている。「もっと人がいたら、もっと新しいことが生まれるかもしれない」。内装など事業拡大を思い描いている。

暮らしも充実できる島

「最初は帰るつもりはなかったんですけど、帰ってみたら案外楽しく暮らしています」と歩さん。大きなショッピングセンターがあるわけでもないが、人同士のつながりがあるおかげで子育てもしやすく、海や山がすぐ近くにある海士町の環境は大人になった今だからその良さがわかるという。

「私はみんなが知り合いというわけでもなかったけど、結婚したら川本が自営業だからどこ行っても川本の奥さんでしょうと言ってもらえるし、みんな話しかけてくれて楽しいなと。海も綺麗だしね。最近マリンスポーツもしている、バナナボートやサップしたりしています」

棚には、海士町ののどかで壮大な自然の中で、3人の子共たちと一緒に写った家族写真が飾ってあった。

「海士町に、うちの会社に来てくれるなら、まず島暮らしに興味がある人がいいなぁ。魚釣りが好きでもいいし、海が好きな人。あとは毎日ちゃんと出てくれる人。仕事のことは心配せんでも大丈夫ですから」と胸を張る川本さん。

アットホームな雰囲気の川本サッシは、まさに島の身近な暮らしを支える会社の一つだ。

 

>株式会社川本サッシの動画を見る

有限会社 中の島総合クリーンセンター

「しっかり働き、しっかり遊べ!」
“縁の下” で島の生活水のライフラインを支える

約2,300人の島民が暮らす海士町。世帯数は1,300弱で、多世帯同居やシェアハウスも多いものの、家屋の数はそれなりにある。事業所の施設・工場もある。
それらから出る下水を処理し、適切に管理する役割を担う会社が、中ノ島総合クリーンセンター(以下、中ノ島CC)。普段はその存在を島民が意識することは少ない、“縁の下の力持ち”の極みだ。長く住むIターン者でも下水処理施設の場所を知らない人は多い。

「そりゃそーだな。地元民だって、この場所を知らん人はおると思うよ」

そう話すのは、中ノ島CCの中村誠さん。父親が立ち上げた会社を継いだ、2代目社長だ。
真顔で近づいて来られたらちょっと怯みそうな風貌ではあるが、その笑顔は優しい。口数は少なく、地元民にありがちなぶっきらぼうな喋り方ながら、時折ユーモアをのぞかせて相手を笑わせる。

下水処理、とひとことで言っても色々な作業がある。そもそも下水とは、汚水(トイレから出る排水)や、雑排水(家庭の台所、風呂、洗面や洗濯で生じる生活排水)、事業所からの産業排水などのほか、雨樋を通じて排水される雨水も含まれる。

「うちの仕事は主に汚水系。汲み取り式は今では減って、浄化槽(=各家庭の敷地内に埋め込まれた小型の汚水処理設備)と、下水道の維持管理がメイン。保守と点検、清掃、検査だな。異常が出れば修繕、トラブルが起これば対応。なるべく異常が出ないように、普段のメンテナンスから、怪しいところを先読みして防ぐ感じ。24時間何があるかわからんから、緊張感はあるよ。一番怖いのは、台風や大雨がきて影響が出たとき。本土から助けが来るわけではないし、自分たちでやらないけんから。以前、台風で停電したときには3日間寝ずに走り回ったこともある。停電しても、一般家庭では水を使い続けるんだから」

現在の社員は3人で、全員が地元出身者だ。
本土で専門的に学んできた中村さん以外は、経験ゼロから始めた人ばかりだという。

「俺は島前高校を卒業してから大阪の専門学校。環境設備科に入って、今の仕事のベースを学んだ。いつか帰ってオヤジの後を継ぐんだと決めていたからね。で、大阪で就職して経験積んで、松江へ移って同業者と横の繫がりを作ってから、島へ帰ってきた。この職業は、都会でも海士町に帰ってからでも仕事の内容は変わらないね。浄化槽管理士や浄化槽設備士や、関連する資格はいろいろあって、社員が資格取得を目指すための金銭的サポートは全部する。ヤル気さえあれば誰でも取れる。俺でも取れたんだから(笑)」

その期待に応えて、“ヤル気” を武器に成長してきた社員の一人、井田竜太さんに話を聞いた。井田さんは、海士町の保々見地区出身。島前高校卒業後、松江で4年ほど、大工や法面工の仕事で働いたが、結婚して子どもが生まれたことをきっかけに家族でUターンした。

「父親と一緒に働いている人の紹介で入社して、いま11年目です。毎日の主な仕事は、処理施設や関連設備の点検ですね。町の合併浄化槽、下水のポンプ場、クリーンマスとか。入社して最初にやったのは汲み取り作業でした。まずはバキューム車の操作から覚えて、抜くだけだから作業としては簡単です。仕事はすべて現場で先輩がやることを見て真似して、実践しながら学びました。入社した頃はおじいちゃんみたいな先輩もいて、色々教えてくれました。社員みんな個性的で、教え上手で、何でも言いやすい環境ですね、資格は入社1年後に取りました。大阪で講習10日間と試験を受けましたが、島で実際にやらせてもらっていたことがたくさん試験に出たので合格できた。やっぱり現場でやってる経験は強いなって、自信になりました。新入社員は勉強すること色々あるけど、僕もサポートするから頑張れ!と言いたい」

怠けるためにも、しっかり働くべし!

「でもヤル気だけじゃなくて怠ける心も必要だぞ!」と社長が口を挟む。
怠ける心。中村さんはそう表現するが、要は、メリハリをもって仕事も遊びもしっかりやれということだ。時間を何とかやりくりして、自分がやりたいことをやる工夫ができるかどうか。よく遊べ!とは、仕事の早さもレベルも上げて上手に働け、という意味に他ならない。

「時間はあるなしじゃなくて作り出すもの。そういう考え方で生きる。うまく仕事をこなして、空いた時間を好きなことに使えよと言いたい。本当にちゃんと仕事をこなしたら、後は釣り行ってもいいんだよ。…俺のことだけど(笑)」

この島は本気で遊ぶ大人が多いが、中村さんはその筆頭と言えるかもしれない。釣り、音楽、サバイバルゲーム…。

「やるなら本気。遊びも仕事も真剣にやるからこそ続くし、面白い。従業員も、仕事ばっかりじゃなくてちゃんと遊んでほしい。遊びというか、好きなことやれよと。16時半くらいに早めに終わって、部活のバスケ指導に行ったりしてる社員もいたよ。そういうの、俺は応援したい」

中村さん自身、海士レスリングクラブ(ちびレス)や島前高校レスリング部の指導をボランティアで長年続けている。レスリングは高校から始め、3年間続けた。当時顧問だったのは、故・上田和孝先生だ。上田先生は海士町西地区出身で、高校在学中に立ち上げたレスリング愛好会が後のレスリング部になった、言わばレスリング部の生みの親。教員時代にはレスリング部の指導に心血を注ぎ、上田先生が残した『愛される人間になれ』という言葉は石碑に刻まれて、今もレスリング場のそばで生徒らを見守っている。

「高校生のとき上田先生に憧れて、体育の先生になりたかった。で、先生が亡くなる3日前に、『お前、後を頼むわな』と言われたんよ。レスリング部を一緒に支えてやってくれと。その約束を守って、ずっと指導を手伝ってる。大江町長をはじめ、海士町にはレスラーの先輩がたくさんいて、みーんな個性強すぎる人ばっかりだな(笑)。俺は大したことはできないけど、レスリングを教えて、上田先生から教わった大事なことを伝えて、高校生らの将来に繫がればいいなと思ってる。卒業後は大学行くなり社会でるなりそれぞれなんだけど、レス部で頑張った時の経験をもとに頑張れ、って言えるように」

小さなコミュニティの組み合わせで成り立つこの島では、仕事以外の人間関係、スポーツや遊び仲間の繫がりが仕事に役立つことも多い。
例えば井田さんの場合は、Uターンしてすぐに始めたフットサルチームの仲間たち。

「自分はバレー部だったからフットサルなんてやったことなかったんだけど、お前もやらんかえ?と誘われて始めました。仲間たちが面白すぎて10年以上続けてますね。そういうところで育てた“横の繫がり”は、仕事する上でも助かるんですよ。松江にいた頃は、そういう繫がりは無かった。この島は、楽しいことに誘ってくれる人がいっぱいいる。繫がろうと思えば簡単に繋がれる。そこがいいところです」

逃げ出せない。逃げ出さない。

新しく仲間を迎えるならどんな人がいいですか?とたずねると、「あんまり真面目なヤツはいやだ。俺が疲れるから(笑)」と中村さん。さらに「地域に出て行ける人じゃないと厳しいと思うよ、ここでは」と真顔で言う。
隣で井田さんが大きくうなずく。

「仕事に慣れる前に、島に慣れなきゃいけません。まずは住む地区になじむこと。神社の祭りや地区の行事では地元民は必ず声をかけるから、一緒にやってほしい。地区の人と仲良くなれば、そこから繫がりが広がるから。職場でも、僕は仕事以外でも交流したいので、自分自身、何でも相談しやすい先輩でいたい。どっか飲みいこっか!家(うち)に飲みにくっか!って誘います。うちの社長はそういう感じ。僕もそうなりたいと思ってるんです」

地域になじみ、人と繋がる。そんな暮らしの中から、島の公共インフラを支える責任感や使命感も強まっていくのだろう。

「実際、逃げ出したくなるようなシーンはかなりあったけど…俺が逃げ出したら、みんなが困る。都会と違って、ここじゃみんなの顔が浮かぶ。小さな島でこういう仕事をするってそういうことだよな」(中村さん)

「そうですね。有事の時もそうだけど、普段でも…例えば、あれっトイレの水が流れない!とか、皿洗いしていてシンクの水がたまって抜けないどうしよう!とか困ったときに、あ、中ノ島CCにお願いすればいいんだ!っていう。そういう存在でありたいし、あらねばと思ってます」(井田さん)

「大変だけど、…やらなな」(中村さん)

二人のやりとり、その眼差しには、島のために、やることはやる!という確かな気合いがにじんでいた。

 

>有限会社 中の島総合クリーンセンターの動画を見る

脇谷商店 OA事業部

港から海沿いから一本入った通りの一角。道を挟んで脇谷商店の店舗や事務所が並んでいる。事業社数がそこまで多くはない海士町で、複数の事業を掛け持つことはあることだが、脇谷商店ほど手広く仕事をしている会社はないかもしれない。

「もともとは曽祖母の酒屋から始まっているんですよ。ただ、いろんな需要が出てきて商店では飲食料、日用雑貨、医薬品そしてタバコも扱うようになっています。このOAの事務所兼文房具屋も、もともとあった文房具屋さんの担い手がいなくなってうちが吸収した形で10年前に始め、OA機器、文房具、教科書を担っています。あと一部不動産の賃貸業がありますね」

天井や窓の外に目線を動かしながら話す脇谷さん。扱う商品やジャンルを数える指は、両手では足りなかった。

「もう何屋さんかわからないでしょう(笑)。小さな島だと、専門店も大事ですけど、一店舗で揃わないとお客さんも次から次に移動しないといけないじゃないですか。アイテム数は少なくても、なるべく一店舗で大体のものが揃うよというのを目指しているのでこんな形になっています」

住民目線の店、会社作り。島の暮らしにとって、脇谷商店はなくてはならない存在なのだ。

島の暮らしを支える会社

父が40年前に法人化。脇谷さんは2年前に2代目となって、今は共同代表として会社を率いている。

「自分自身、島で生まれ育ったので、若い頃は都会的なものに憧れて高校から外に出ていました。高校は松江市に出て、大学は東京。東京で就職もして15年くらいは向こうにいましたねただ、親の病気があまりよくないよということだったので、早めに戻って一緒に生活基盤を持っていた方がいいなと思いました」

こうして、10年前にUターンで戻って家業を手伝い始めた。帰ってきて改めて感じたことは島において、脇谷商店の果たす役割と責任感だったという。

「うちは食品を扱っている以上、学校給食や島前高校の寮の食事にも関わっています。当たり前ですけど、これらは日々切らしてはいけないもの。うちにはこれを安定供給させる責任があります」

もちろん地元で地元産のものを消費できるのが一番いいけど、それでは海士町だと安定供給が難しくなってくるという。そこで大事にしている考え方が「地消地産」なのだという。

「地元で消費されるものは、できれば地元で作り出していきたい。ないものについては仕入れたりもするけど、地元で事業を起こしてでも作ることがベストだよねという考え方です。島の暮らしに関わるものは、ある程度外から仕入れることもしながら常に安定して供給することの方が大切ですから。こう考えてやる仕事は楽しくもあり、難しかったですね。ストックの量、ロスの問題もあるし、輸送の問題もある。公共事業じゃないけど、ないと島のみんなが困るのを感じる。やりがいも感じるし、大変さも感じます」

なくては困るものと言えば、立ち上げて11年になるOA事業部もそう。情報社会へと加速する現代において、生活の利便性を上げていく上でも欠かすことができないものだが、海士町では脇谷商店が頼みの綱だ。

大きな事務機器としては主にコピー機を役場や企業に卸すことが多く、需要は一定しているという。また、近年ではパソコンからタブレットに移行したいという声も多く、ネットワーク関連機器の需要もどんどん増えてきていると言う。

「なかなかIOTというか情報化に対しての企業が町になく、パソコン一つとっても使い方からソフトウェア的なことまで知識がない方が多いんです。パソコンでも、お客さんからサポートしてほしいと聞かれるのは、プリンターと繋いでくれとか、wifiってなんだ?とか、動画の上げ方を教えてくれとか、そのあたりのレクチャーまでやっていますから(笑)」

週5日勤務にはこだわらない。働き方もつくり出してほしい

多岐にわたる事業のことを、流暢に、そして目を輝かせながら話す脇谷さん。その柔軟な視点は、東京時代に国会議員の秘書を8年務めていた経験から来ているのだという。

「その頃はいろんな人と会い、いろんな考え方を聞きました。一方通行ではなく、情報の取り方とか、どこに落とし所を持ってくるとか、そういうことを考えながら多面的に物事を見なきゃいけないことがわかりました。狭い世界だけじゃなく、広く世界にも目を向けていかないといけない。どんな意見もその人の正解であって、間違ってはないと思うんです。だから私は誰かの意見を否定することはしたくなくて、どれも正しいだろうなと思って聞き、それを踏まえて自分の答えを考え出すのが大事だと考えています」

事業内容や地域性、物事を判断する際に固定概念や強いこだわりがあると、新しいチャンスがそこにあってもそれを見つけることができない。その点、この柔軟な考え方こそ、脇谷商店を脇谷商店たらしめる最大の武器なのかもしれない。それは、働き方にも言えるという。

「昭和のように人口が増えている時代であれば、人材もいろいろいただろうし、担い手も役割もたくさんあったと思うんです。でも、今はぐぐっと日本全体の人口が少なくなってきている。そんな時代だからこそ、働き方はさまざまでいいと思っているんです。
例えば、週5日勤務で何時から何時という形じゃなくても、自分がやりたいと思う主たる仕事や趣味を持ちながらでも、週の半分は弊社で働くスタイルでもいいと思っています。それが許容されないとすごく自由度がなく、つまらない人生じゃないですか。もちろん5日弊社にいてもらってもいいけど、柔軟にいろいろな働き方があるなかで、弊社を利用してもらうというか土台として考えてもらえるとお互いにやりやすいのかもしれない」

もちろん、仕事としてやらなければならないことは当然あるが、それに縛られずに自分の興味や能力を発揮してほしいというのが狙いだ。

「自分はこれが趣味で、これをぜひみんなに広めたいという思いがあってもいいじゃないですか。自分の趣味をむしろ強みに生かすような働き方ができると面白いと思っています」

仕事も、島も、楽しもう

海士町で生まれ育って、商売を続けてきた脇谷さんだからこそ、島に対する思いも強い。

「島はいっぱいお店があるわけじゃないから、誰かが複合的に担わなきゃいけないと思っています。隣近所が疲弊していて自分のところだけ儲かっていればいいなという状況も違う。共同生活じゃないけど、みんなで島の暮らしを作っているので、ある程度win-winの状況になっていかないといけない」
その上で、従業員たちも含めて島の暮らしを楽しみたいという。

「とにかく楽しんでやるのがいいんですよ。趣味でも、魚釣りであろうが、野菜作りであろうが、ラジコン作りであろうが、何かをしたいというきっかけさえ持ってきてくれるなら、弊社は扱っている商品も幅広いのでやろうと思えばなんでもできちゃう。アイデアや強みを活かしてくれる人、ぜひ入っていただきたいですね」

脇谷さん自身、まだ船を持つ夢は叶っていないが、ひとまず海を満喫しようと一級小型船舶の免許を取得。

「これもいつかみんなで一緒に海に出たいですね。遊びも楽しむ。それが違うビジネスチャンスを生むこともあるし、そんな働き方ができたらいい。何年後かにクルージングの事業部ができているかもしれない。そんな可能性だってないことはないかもしれないじゃないですか」

チャレンジしたり、まだ見ぬ世界に飛び込むのは少し勇気のいることだったりもする。

「大丈夫、ここには一緒に楽しみ、挑む仲間がいますから」

こんな柔軟なリーダーが、あなたの挑戦を待っている。

 

>脇谷商店 OA事業部の動画を見る

株式会社 ゆうでん

島では珍しいクールな外観の建物に、爽やかなライトブルーの「YUDEN」ロゴ。
この事務所を構えるゆうでんは、住宅や施設の給排水の工事、空調設備の施工を行う会社だ。

社長の波多誠さんは海士町出身で、家電の販売・修理をする電気屋の次男坊として生まれた。幼い頃から勉強よりも身体を動かすほうが好きで、技術を身につけてものづくり系の仕事に就こうと、島根県立松江工業高校(松江市)に進学する道を選んだ。

「でもまさか、卒業してすぐUターンするとは夢にも思わんかったですけど…。実家の電気屋が大変で、即戦力として呼び戻されました。そこからは、がむしゃらに働いてきましたね」

そして2010年、父親の個人事業だった家業を株式会社化し、事業を継承して代表取締役に就任。島民に浸透していた「ゆうでん」の社名はそのまま残し、水道まわり、エアコン工事等まで守備範囲を広げて、株式会社ゆうでんとして新たなスタートを切った。

「現在の社員は、この事務所(給排水・空調関連)に4名。それと最近始めた板金塗装業に2名。年齢は40歳から47歳です。設置や配管などの施工業のほうは、公共の施設が7割、残り3割が民間の家屋という感じ。海士町に住む全員が顧客なので、スタッフの人数的にはギリギリ。みんな常にどこかの現場に出ていて、日中は事務所に誰もいない状態ですね」

ゆうでんの社員は全員40代。若者というわけではない…というかむしろ皆おっさんなのだが、いたずら好きの少年のような面影を残す大人ばかりだ。

「良い意味で、遊びやさんっていうのかな。まさに “類は友を呼ぶ” で、いつの間にかこんな集まりになってた。子どもの頃にしてた遊びを大人になってもやってるやつらばかりです。遊ぶだけじゃなくて、仕事と遊びの切り替えが上手いってことですよ。以前は、昼過ぎに仕事が終わればみんなで魚釣りに行ってた。最近はよくラジコンで遊んでます。ラジコン好きも、原点はものづくり。子どもの頃に夢中でやってたプラモデル作りが、この世界に入る原点になってるんだろうね、今思うと」

島の挑戦に、自分たちも関わりたい

自社だけではなく島全体のことを考える視点を持っていたい、と言う波多さん。
島の未来のために自分には何ができるか。この問いに正面から向き合うようになったのは、2015年に立ち上がった「明日の海士をつくる会」、通称「あすあま」に参加したことがきっかけだった。

あすあまとは、「まち・ひと・しごと」創生総合戦略の策定と実現を目指すために結成された、海士町住民による会議のこと。観光や福祉、教育、漁業、農業、建設業や飲食業といった多様な分野の民間の有志らと町役場職員が、共に議論を重ねていた。

「あすあまでは、この先50年どうすんだっていうことをみんなで考えてました。そこに参加したことで、海士町の未来のためにはアレが必要だ、コレは残さないといけない、でもコレはこういうふうに形を変えないといけないとか、そういうことを常に意識するようになった。自分や自社のアクションが巡り巡って町のためになる、そういう“循環” の意味が分かるようになったり、島に昔からある工場や、地域の伝統など、なりゆきに任せたら失われてしまう “大事なもの” を守るために『今、手を打たねば』と感じられるようになったり。自分の中では大きな変化でした」

ゆうでんは、海士町複業協同組合(以下、複業組合)の立ち上げに関わり、波多さんは発起人の5名に名を連ねている。複業組合は、海士町内の複数の事業者が連携し、季節ごとの仕事量に応じて組合職員を派遣する仕組みだ。年間を通じた雇用の創出と人材育成、ひいてはU・Iターンの促進を狙う、全国でも先進的な試みとして、2021年からスタートした。

「複業組合に関わったのは、当社の利益がどうとかメリットがあるとかじゃなくて、海士町全体としてそういう人の集め方も必要なんだろうなと納得できたからです。ゆうでんも、町のチャレンジの方向性と歩調をそろえることが必要だろうなと思って。実は、複業組合からの派遣はうちのような建設業では受け入れられないんだけど(※労働者派遣法の規定による)、たまたま今、農業をやりたい社員が1名いて、複業組合に協力してもらったら農業にも挑戦できるかもしれない。そういう事例をひとつ作ることができれば、複業組合の見え方もまた違ってくるはずだしね。…要は、種まきですよ。未来への」

長期的な視点での、島のためのアクション。最近始めた自動車の板金業も然りだ。
島で長く板金塗装を営んでいた会社の社長が、体調不良をきっかけに突然事業を閉めると言い出した時、波多さんは即、動いた。

「その時は、とりあえず工場をうちの会社に譲ってくれとだけ言ったんだけど…、でもよく考えたら、板金がなくなったら町にとってはかなりの損害。だって車をぶつけるだけでお金がどんどん本土へ出ていく。なんとか残したいと考えるようになりました。たまたま先輩に板金経験者がいて、先代とも親しい。だったら彼に工場を任せて、板金もうちの事業としてなんとか存続させようと、取り組み始めたところです」

信用を売る。それが俺たちの “ものづくり”

ものづくりと言っても、メーカーのように製品を作っているわけではない。
ゆうでんがつくる “もの”は、最初は目に見えない。家や施設が出来上がった後にも、その全容は見えない。彼らが提供するのは、裏側で働く仕組みや機能そのものだからだ。

「何かを選んだり買ったりするときって、普通はモノを見てから決めるだけど、俺らの仕事は最初はモノとして見えない。工事完了した後も、換気扇や蛇口とかの部分は見えてるんだけど、俺らがやったこと自体は単体ではとらえられないよね。床下や天井裏の配線や配管がどうなっているか、システムとしてその中にどのくらいの部品を使っているか、普通は見えないでしょ。つまり『信用』を売っているということ。例えば大工だったら家を見たら上手か下手か分かるけど、施工の良し悪しは、家を長く使ってみて初めて評価されるもの。問題なく使えることが当たり前だから、価値を感じてもらいづらいかもしれないけど…、日々の仕事をコツコツやって信用を積み上げていく、地道な商売なんですよ」

と言って笑いながらも少し誇らしげな波多さんと、周りでうなずく社員たち。
見えない部分も含めての、“ものづくり”。それは長年かけて築いた信用とプライドで出来ている。

職人集団ゆうでんの一員になるなら、施工関連の経験が有るに越したことは無い。だが、社長曰く「ものづくりに興味がある人なら経験は問わない、資格の有無も問わない」とのこと。年齢も特にこだわらず、資格取得のための費用は会社でサポートする方針だ。

どんな人材が欲しいかと聞くと、「ごんた!」と即答する。ごんたとは海士弁で、やんちゃな負けず嫌いのことだ。

「この業界は、職人としての自分の成長は退職するまでに完成しないし完結もしない。現状のスキルで満足する人はもう伸びないし、どんどん探究する人が伸びていく。だから、負けず嫌いなほうがおのずと良い方向へ行きやすいです。あと、島の生活は不便が多いから、精神的にも強くないとね」

…なるほど。ごんたなら、厳しい職人の世界でもしぶとく生き抜いていけそうだ。波多さん自身、筋金入りのごんたであると見た。

「あと、島暮らしをうまくやっていくコツは、すべてを楽しむことだと思う。で、楽しむために努力が必要。仕事も同じで、働く楽しさを味わうためには努力が必要だと思ってます。俺は楽しみたいから頑張るし、新しく来てくれる人にも、一緒に楽しもうと言いたい。俺ら地元民の言葉はきつく聞こえるし最初はサッパリわからんと思うけど(笑)まとめると…ごんたで、地道に努力できて、かつ、この島を楽しむことが出来る人は、ウエルカム!!ってことですね」

 

>株式会社 ゆうでんの動画を見る

株式会社 向山電気

「こんにちは、よろしくお願いします」。レジの奥から出てこられたのは、グレーのつなぎ姿にキャップを少し斜めに被った社長の向山勝彦さん。なんだか勝手にイメージしていた町の電気屋さんという感じではない。

「会社の制服っていうのも作ってないし、そういうのに縛られるのも好きじゃない。社員にも経費で払うから作業ができる好きな服を買ったらいいよと言っています」

良い意味で肩の力が抜けたラフさ。初対面だが懐かしい同級生に会ったような、なんだか親しみやすさを覚えた。

気付いたらいつの間にか電気屋に

店に入ると真ん中を境に、左は洋服店、右が電気屋という作りになっている。

「もともとは祖父母の代から店を始めていて、祖父が電気屋をやり、祖母が服屋をやっていたんです。それを電気屋は父が、服屋は母が継いで。そんな家に生まれたんですけど、子供ながらに電気屋になる!と言っていたのは小学生までだったかなぁ。特に継ごうという気持ちも正直なかったです」

忙しく働く親の背中が最初はかっこよく見えたが、段々と都会に目が向き、違う仕事に就きたくなる気持ち。

「医療事務の仕事とか、堅い仕事をしようと思っていたんですけど・・・。気付いたら、なぜかここにいる感じ」と笑い、首をかしげる。

転機は、大学を卒業する頃。父が体調を崩し、「長男だし」と店を継ぐことを決めた。岡山県倉敷市の家電量販店で3年間、販売やサービスをして働いた後、高校時代の同級生と結婚して25歳でUターン。子供の頃と、大人になって働くようになると、島の見え方もがらりと変わった。
「実際に帰ってきて、ほぼゼロからだったんで、何もわからない状態で大変でした。家電を売ることに関しては抵抗なかったけど、まず家電の修理はノータッチだったのでそれを覚えるのと、あと島の人の顔を覚えること。子供の頃は意識してなかったけど仕事になると最初はめちゃくちゃ覚える顔が多くて・・・。正直、必死でした(笑)」

島の電気屋も、昔は3つあったが今は2つに。「電気のことなら向山さんに」ということなのでしょう、忙しそうな父親を見てわかっていたつもりでも、その想像以上に仕事がたくさんあって驚いたそうです。

「こんな田舎で商売できるんかなぁと思うでしょう? せっかくならスローライフを楽しみながら働きたいと思っていたけど、とそれが蓋を開けてみて驚きました」

町の電気屋さんにはいろんな仕事が舞い込む。電池交換ができない、体温計の電池を換えてくれ、電球一個付け替えに来てくれんか・・・。小さな仕事から大きな仕事まで、町の人に頼りにされていると感じる瞬間でもある。

視点を変え、新しい事業に挑戦

「もともと自分は結構保守的なタイプなんで(笑)」。そんな風に言いながらも、家電販売をメインにした事業に、自分で勉強をしながら電気や水道工事まで幅を広げていった。同じ業態で事業を継続する会社が多い中、視点を変えて島にはない業務形態を作り出した。

「田舎の狭い世界で客商売をしていると、お客さんの動向も見えてきて、それを気にしすぎるようになった自分に気づきました。このままこうやって家電販売だけでずっとやっていくのかという思いもあって、だったら今はできなくても、違うことでも売り上げを作ればいいんじゃないかと思ったんです」

思い立ったら行動が早い向山さん。取れる資格は取ってみようと、電気工事や水道工事など5つほど資格を取得。動けば、何かを引き寄せるもの。事業を拡大するタイミングも向山さんにちょうど巡ってきた。

「いろいろな兼ね合いもあって、海士町に電気工事をする会社がいなくなったタイミングでうちが立ち上げたんで、順調に仕事が増えました。家電と少し違う方向を向きたかったんですけど、やってみたら工事の方が楽しいんですよね。お客さんと接する販売業だけでなく、黙々と作業に取り掛かるのも向いているんだと思います」

工事関係の仕事は、地元の大工や工務店から新築や改修の時に電気工事を請け負うことが多く、内線工事や時々水道工事まで行う。電池一個の販売から電気・水道工事までを請け負う懐の深さが今の向山電気の強みだ。

「本当に手が追いつかないくらい仕事をいただいています。すぐに対応できなくて断らざるを得ないこともあるほどで、正直、従業員が増えたら嬉しいです」。新しい体制を組み、事業を充実させていくことを目指している。

島で長く働いてほしい

今は、従業員1人と二人体制。4年目の宇野稔貴(としき)さんは、松江市から移住してきた26歳で、前職も工事の仕事をしていた。

「自分は人を縛るのも好きじゃないし、教えるのも得意じゃない。あまり干渉しすぎることもないし、本人がいいようにしてくれたらいいんじゃないかなぁ」と話す向山さんの隣で、「働きやすくさせてもらっています」と宇野さん。お互いどんな話をするんですか?と聞けば、「う〜ん、なんの話するかなぁ。二人ともアニメが好きなんで、今シーズンは何を見た?とか。そんな感じですよ」
少し歳の離れた友達のような会話。二人の絶妙な距離感が、この会社らしいところなのかもしれない。

「断っている工事をやっていくことが最優先。人が増えると、二人いれば3倍、4倍の力が出ると思うので、持てる現場が確実に増えますから。あと、仕事はもちろん、島暮らしにも慣れてほしいですね。海と山くらいでなんもないですけど、うちも小学生と保育園児の3人の子供たちが伸び伸びと育っていて、子育てにはいい場所だと思います」

父親の顔を覗かせる向山さん。窮屈だと感じていた人間関係も、子育てや仕事を通して今となっては安心感にもどこか繋がっているそう。

「お互いに知らないことはないですよね、多分どこに行っても。気が楽なのもありますし、多分なんかあった時にはそれがいい方向に向くんじゃないですかね。困った時に助けてもらうことは、将来絶対あると思っています。でも、そういう人間関係の狭さや距離感の近さはあるので、そこも含めて島に慣れて、長くいてくれると嬉しいですね」

取材の最後に、作業現場で島に1台しかない高所作業車の仕事を見せてもらった。12mまで伸ばせるはしごがついている。

「そんな高い仕事もそうないですけどね。いちばん伸ばしたのは、子供を乗せた時くらいかなぁ」

車の鍵には、娘さんが写ったキーホルダーが付いていた。向山さんはあまり多くを語らないが、なんだかんだと言って、家族のことも、地元のことも、従業員のことも、そして会社の未来のことも考えている。

 

>株式会社 向山電気の動画を見る