隠岐海士交通株式会社

島のバス停には、大きなしゃもじが立っている。
海士町発祥の民謡「キンニャモニャ」は両手にしゃもじを持って踊ることから、しゃもじは海士町を象徴するモチーフ。それにちなんで、路線バスの時刻表を貼ったスタンド看板が、しゃもじ型なのだ。
時刻表を見ると…例えば菱浦港から役場経由で豊田地区へ向かう豊田線は、1日6便のみ。本数は少ないが、島民の足としてバスは不可欠なものだ。運行会社は、隠岐海士交通。同社は路線バスのほか、観光バス、そしてタクシー事業も行っている。

「交通インフラの不便を解消して、お年寄りなど交通弱者の方々の助けになること。そして観光業としては外貨を獲得すること。地域の生活を支える一企業として、海士町の役に立ちたいと思っています」

静かにそう語るのは、海士交通の石倉功社長。高齢化が進むこの島では、買い物や銀行、診療所への通院、島外へ出るために港へ行くのにも、バスを必要とする高齢者が各地区にいる。
またタクシーは、観光客はもちろん住民の生活にも欠かせない。島には電車も運転代行サービスも無いので、遅くまでお酒を飲んだ晩にはタクシーのお世話になる人が多い。タクシー運転手は地元民の家はほぼ把握しているので、仮に居酒屋で泥酔しても、難なく家まで送り届けられる。そんな、頼りになる存在なのだ。

そもそも海士交通の歴史は、タクシーから始まった。

「父が大阪で個人タクシーをやっていました。そして島へ帰ってきたとき、町内に車が1台も無かった。オート三輪が2,3台あっただけだったそうです。それではやっぱり不便だから、タクシーを1台買ってきて、石倉タクシーを始めました。そこへ、本土の企業がバスを持ち込んで運行しだした。いわゆる外資です。それを見た父は、自分でどうしてもバスをやりたいと息巻いて、親戚から猛反対を受けつつも、バスを買い上げてバス事業を始めた。路線バス2台からスタートして、さらに観光用の貸し切りバスもやって…結果、一般旅客運送事業のすべてをやるようになりました」

一度は東京に住んでも、やっぱり海士町が好き

石倉さんが海士交通に入社したのは、平成8年4月のこと。前職は東京で音楽業界の某メーカーの子会社に勤めていたが、心機一転Uターンした。会社では事務員からスタートして、タクシー乗務、バス乗務、経理も経験。平成11年、父親である先代社長が亡くなったことを機に会社を継承し、30歳の若さで現職に就いた。

「実は会社の後ろが自宅です。社員の皆さんには子どもの頃から日々かまってもらってた。路線バスに無賃乗車させてもらって、一日中バスでぐるぐるぐるぐる…ヤクルト1本もらってずっとバスに乗ってたり(笑)。当時はすごくバス需要があって、朝から晩まで利用客がいましたね。一度は東京に出て働きましたが、東京は遊ぶには最高だけど住むとこじゃないよなーと感じていました。将来的に家庭をもって子育てするなら、星が見えて、青い海が見えて、子どもたちに草や土を踏ませて、春夏には虫取りにいって…そういうのがいいなって。根が田舎者だったんでしょうね。だから帰ってきました」

やっぱり島がいい。そんな想いで帰ってきた石倉さんに、島暮らしの魅力を聞いてみた。

「不便は限りなく不便ですよ(笑)。でもそれを上手に自分のものにしてしまえばいい。海士町が掲げている『ないものはない』という考え方が肝なのかな。これが島のリズムなんだよ、と受け入れてしまえばそれがベストの生活になる。あとは人ですね。東京だと隣の家のことは全く気にしないけど、この島だと、2、3日顔を見ないだけで、どうしたよ~?ってやって来る。それをプライバシーの侵害とか言っちゃう人には住みにくい環境だけど、違う見方もあるでしょう。例えば心臓発作で倒れた時に、近所のおせっかいとか配慮の気持ちのおかげで命が助かることもじゅうぶんあり得るわけでね。ただ、合う・合わないはあるよね」

住人、そして観光客。島内の人の巡りを良くしたい

会社を継いだ当初は「自社のことで必死で、まちづくりのことまで考える余裕がなかった」と振り返る。しかし社長として島内の各企業や団体と繫がりが増え、地域に根差し、趣味やスポーツなど小さなコミュニティにいくつも属しながら暮らしを深めていく中で、自然と島全体のことを考えるようになった。
現在は、海士町観光協会の副会長や隠岐国商工会の会長も兼務しており、主に産業の視点から、島の未来を考えていく立場にある。

「2008年に、海士町の総振(※第4次海士町総合振興計画「島の幸福論」2009-2018)の策定に参加させてもらいました。この会議で初めて、島のことについて他の人と意見をぶつけあう経験をした。これがまちづくりを考えるようになったきっかけですね。その少し前に夕張ショック(※2006年、北海道夕張市が財政破綻した衝撃的なニュース)もあり、海士町も他人事ではなく…このまま人口がどんどん減って2000人を割るようなことになったら町の経済がストップしてしまう、このままだとふるさとがなくなっちゃうんじゃないか…ってすごい危機感をおぼえたんです。もっと賑わいをつくって、その中から産業を創出して、雇用を増やして、人口も増やしていかなきゃだめだって」

いま、石倉さんの中で重要なキーワードは、“賑わいをつくる” 。そして “人を巡らせる” 。そのための挑戦を続けているところだ。

「観光バスが動かないことには宿も繁盛しないし、お土産業も繁盛しない。人が通り過ぎるだけじゃ全く外貨が落ちないんです。港完結の団体輸送だけじゃなく、港から島中へ人を引き込めるようにしたい。例えば、隠岐神社の鳥居の前に昔からあった観光休憩所を『つなかけ』というお土産屋さんにリニューアルしたんです。運営は隠岐桜風舎で、私は取締役をやらせてもらっています。あの場所をもっと賑やかにしていきたい。大袈裟に言っちゃうと、外貨獲得のためには、島内まるごと海士町アトラクションっていうイメージを実現したいんです。路線バス、タクシー、貸し切りバス、この3つは客層がぜんぶ違う。それらが人や活気を循環させて、島がディズニーランド化したら面白いよね。観光バスが1本の川の本流であるとしたら、支流を町内中にあちこち張り巡らせて、100円でも200円でも町内に落ちるようにできたらいい。そこから、創業や雇用が生まれる」

町内の流動人口を回せる仕組みづくり。
人を運ぶだけではなく、住民どうし、そして観光客と住民とのコミュニケーションも繋ぐ。観光スポットを繋ぎ、周辺のアクティビティと繋ぎ、地元のプレイヤーどうしを繋ぎ…
宿、飲食店、交流施設。繋いでみて初めて生まれる価値、動き出すサービスや企画もあるだろう。

交通インフラの立場から、島の総合力を底上げするような存在に。石倉社長のビジョンは壮大で、“ディズニーランド化” への道のりは簡単ではないだろうが、島内を人が巡る仕組みづくりは海士交通なしでは実現しない、ということは確かだ。

「そういうビジョンに賛同してくれる人が来てくれたら嬉しい。とりあえず最初は、ここで生活してみたいな~というシンプルな気持ちからでいいと思います。おいしい空気吸って、美味いもん食べて、サラリーをもらって、スタートはそれで十分。
あと言いたいのは、来る人には見た目じゃなくて業務の中で個性を出してほしい。観光客相手の仕事では、喋り方や伝え方で必ず個性が出てきます。要所要所の案内だけはきっちリしながら、限られた時間の中でどういうふうにお客さんに満足していただけるか、という工夫の部分でその人らしさが出てくるといいですね。
まあ、とにかく暮らすことからです。地に足つけて、徐々にやりたいことを見つけて、いつか創業するのもいいかもしれない。まずは、一緒に海士で生活しましょう」(笑)

 

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株式会社 川本サッシ

「最初はみんな経験したことがないけん。大丈夫。妻も全然サッシの仕事なんてしたことがなかったけど、2〜3年連れて回っていたらできるようになったから」
秋晴れの中、お客様のカーポートの屋根を取り付ける作業を、脚立に乗った川本夫婦が並んでやっていた。「私は職人じゃないんだけど」と隣で笑う妻の歩さん。海士町で生まれ育った幼馴染でもある二人は、Uターン後に継いだ家業で生計を立てている。島の建設業の一端を担う仕事にやりがいを感じながら、島での日々も充実した様子で、いつも笑顔が絶えない。

生まれ育った町で働く

「もともとこの家が建っていたんだけど、事務所に改築して、裏に家を建てたんです。どうせなら広い事務所にしようと思ってね」

木造の広々した事務所でインタビューに答えてくれた川本さん。故郷に戻って11年。創業者である父から代が変わったのは3年前で、現在はこの事務所に両親と、妻と4人の役員体制でデスクを囲んでいる。

建築系の専門学校を卒業した頃からなんとなく将来島で働くことを決めていた。

「大阪に出たこともあるけど、都会はやっぱり自分には合わんなぁとわかりました。いずれ戻ってこようと思ってはいたけど、それが遅いか早いかの問題でした」

父の勧めもあって、そのまま帰らず島外で何かを身につけてから帰るため、松江市の同業種の工事員として5年ほど働いて島に戻った。

島の仕事は、都会と違って「顔が見える」と言い、そこが川本さんは好きだという。

「元請けさんや大工さんもみんな協力してくれるし、すごく仕事しやすいですよ。本土にいると、建築の工程で、自分の職種しか関わることがなかった。関係ない人はほとんど顔も知らなかったけど、海士町は真逆。現場行くとみんな知った顔で、困ったことあったらちょっとお願いだから手伝ってとか、気軽に言える関係性がいいかなぁ」

可能性はいくらでもある

仕事は多岐に渡る。

「松江にいた時はシャッターとスチールのドアくらいしか扱ったことがなかった。今はやることの幅がとても広いですね」という。

事業内容は、基本的には鋼製建具と言われるもので、アルミサッシ、シャッター、その他付随するもの、鍵や自動ドア、ガラス工事が主だ。

「基本的には隠岐島内の工務店さんと、一般顧客は島前地区の西之島、知夫も回っています。今は妻と二人で現場を回っていて、なんとか仕事が追いつくくらいですね」

島を愛する一人として、自分たちの世代、そのまた次の世代のことを考える。業界の職人も年齢層が高くなっていて、「働き盛りの30代前後をもっと増やしていきたい」と川本さん。島の仕事は、近いネットワークのなかで役割分担がきちんと分かれていて、それを維持していくにはスムーズな世代交代が求められていて、建設業界の仕事の魅力をもっと伝えることが必要と感じている。

「隠岐地区の建設業界がちゃんと回れるようにその一員としてやっていけたらなぁと言うのしかない。自分だけ儲けてやるとか、本当は儲けんといけんけど、それより前にみんなと協力してやらんと、儲けも出てこんし、仕事も生まれない。それが一番大事だと思う」

時代の変化とともに、変わることもある。そこに新たな可能性があると川本さんは話す。最近でいえば、以前は玄関取替などで下枠の補修を左官屋さんに頼んでしてもらっていたモルタル補修も、自分たちでやれることはやるようになった。

「広く浅くなんでもすることも必要になってくるかもしれない。この職種に拘ってないわけじゃないけど、他にも違う業種も攻めて行けばいいんじゃないかと思っています。海士町の中でも手薄な業種はあって、その職人さんが来てくれるなら一番それがいいんじゃないかなと思う。内装工事やペンキ塗装、基礎工事も元請けさん自分たちでやるからいいけど、個人とかそこまで手が回らないと思うし、そこら辺もやれるならそこに向かっても面白いと思っています」

父が現場を離れてから、大変な時期もあったが妻の歩さんが徐々に仕事を覚えてくれ、多くの依頼に応えていくことができている。「もっと人がいたら、もっと新しいことが生まれるかもしれない」。内装など事業拡大を思い描いている。

暮らしも充実できる島

「最初は帰るつもりはなかったんですけど、帰ってみたら案外楽しく暮らしています」と歩さん。大きなショッピングセンターがあるわけでもないが、人同士のつながりがあるおかげで子育てもしやすく、海や山がすぐ近くにある海士町の環境は大人になった今だからその良さがわかるという。

「私はみんなが知り合いというわけでもなかったけど、結婚したら川本が自営業だからどこ行っても川本の奥さんでしょうと言ってもらえるし、みんな話しかけてくれて楽しいなと。海も綺麗だしね。最近マリンスポーツもしている、バナナボートやサップしたりしています」

棚には、海士町ののどかで壮大な自然の中で、3人の子共たちと一緒に写った家族写真が飾ってあった。

「海士町に、うちの会社に来てくれるなら、まず島暮らしに興味がある人がいいなぁ。魚釣りが好きでもいいし、海が好きな人。あとは毎日ちゃんと出てくれる人。仕事のことは心配せんでも大丈夫ですから」と胸を張る川本さん。

アットホームな雰囲気の川本サッシは、まさに島の身近な暮らしを支える会社の一つだ。

 

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中畑建築

島中から頼られる大工さんが、
共に働く仲間を募集

「強面というよりも、危険な匂いがすると言われます(笑)。こんな感じですが、商工会の中でもいじられ役になることが多いですね。後輩が僕をいじると盛り上がるので、そういうのも受け入れています」
作業着はサングラスをかけている中畑さん。一見すると怖そうに見えるが、話してみるとそんなことはなく、むしろサングラスの下の大きな目はチャームポイントになるくらいだ。「小さい頃からずっと『みっちゃん』なんで、もうそれで通っていますね」。そう話す笑顔を見ると、島の中で愛されているのがなんとなく伝わってくる気がした。

生まれ育った島で、父を継いで大工になった中畑さん。その丁寧な仕事が評判を呼び、住まいのことなら大工の「みっちゃん」を頼る人は多い。

一度は出た島での大工仕事が面白くなった

「もともと親父が大工をしていたんです。小さい頃は親父が家で木を加工するところは見ていたけどそこまで(大工に)興味はなくて。すごいなとかそういう感情もなく、また親父が木を削っているなぁと思っていたくらい。でも、親から継いでほしいというプレッシャーはあって、なんとなく大工になるんだろうなあと思っていました」

一時は料理人に憧れたが諦め、建築の学校で学ぶために大阪に出た。「勉強もせずに遊んでいましたね」と当時を振り返るが、その頃パチンコ屋のバイトをしていたといい、そこで出会った友人に誘われて建設業界で働くようになった。

島に戻ってきたのは、約15年前。30歳になろうとしていた頃だった。

「親父の仕事が忙しくて手伝いに帰ってこられないかと相談があって、働いていたところに少しの期間、実家に帰らせてくれと言ったんですね。半年くらいだったかな。その間、親父の仕事を手伝いながら、大阪でやっていることとこっちでやっていることが変わらなくて、どっちも一緒だなぁと思ったんです」

実際、働いてみると、島での大工仕事が面白くなった。

「ものができていく、手をかけるほど、目に見えて綺麗になっていく。木をうまく合わせていくとか、丁寧にやればやるほど綺麗になっていくんだなぁと。やりがいを感じるようになりました」

抱えきれないほどのリフォーム需要

5年ほど父親と一緒に働いたが、今は一人親方であちこちの現場に引っ張りだこ。仕事は想像以上に多く、ありがたいことに忙しい毎日があっという間に過ぎていくという。

「全然追いつかない。やり終えてもまた次の依頼があって、溜まる一方ですね。地元の年配の人からは『暇になってからでいいよ』と言ってくれるんでそれに甘えちゃって…。お客さんも2年、3年待ってもらっているところもあるんです(笑)」

島内の住宅事情をいえば、30〜40年前が建設ラッシュ。それから住宅の耐性を考えるとちょうど傷みも出てくるところであり、また世代が変わるタイミングでのライフスタイルの変化に伴ったリフォームの依頼が増加している。特に浴室とかキッチン周りといった水回り関係が多いという。

「昔、あんたのお父さんに建ててもらったという家もあったりしますよ。海士町では、この家は代々この大工さんが担当しているみたいなつながりがずっとありますが、それ以外にも同世代のつながりから新しいお客さんも増えたりしています」

お客さんも、仕事仲間たちにも、島特有の距離感やあたたかな関係性がある。中畑さんはそこが好きだそうだ。

「地元の人はおおらかというか、ある程度融通を利かせてくれるというか、余裕を持って仕事ができる。用事があって1〜2時間抜けるわ、と言っても「いいよいいよ」と。緩いところもあってそこがいいんですよ」

町を歩いていたり、飲み屋にいけば知った顔と出会って、そこから仕事を頼まれることも多い。

「飲み屋で会ってちょっと『今度家のここを見てくれ』とかも言われるんですけど、翌朝覚えてなかったりします(笑)。たまたま出会った時に『言おうと思っていたんだ』とかもあるし、そういうお客さんとの距離感なんですよね」

島の人にとって、それほど身近に住まいのことを相談できるのが中畑さんであり、いわば海士町の大工なのだ。建築関係の事業者は現在、中畑建築を含めて6〜7社ほどある。中畑さん曰く、それぞれが公共工事を主に請け負う会社もあれば、個人客を相手にしている会社もあって「みんな忙しそうにしている」という。「でも、今一番若い大工が20代後半くらいで、30代はいないし、僕の上も50代はいないですからね。その辺は気にはしています」。仕事は尽きないだけに、その担い手がきちんと続いていくようにしないといけないと自覚しているという。

何よりもお客さんとの対話を大切に

「一番大切にしているのが、施主さんとしっかりコミュニケーションを取ること。お客さんの思いや求める条件を100パーセント形にできるように話をつめていきたいといつも思っています。僕らの仕事は、最初の打ち合わせが大事。出来上がったものが『こんなの求めてない』と言われてもダメですし、そこはお互いの信頼関係にもつながりますから」

お客さんからの要望を聞きつつ、建材や工法など専門的な視点から見た丁寧な説明を心がけているという。

「材料一つとってもメリット、デメリットありますから、そこをちゃんと理解してもらわないと。安い建材でいいと言われて使っても、その分劣化も早かったとなると、こちらの説明不足だったということになります。例えば、床材は張り合わせたものだと冬場は冷たいとか。値は貼るけど本物の木材の方が暖かいですよ、とかメリットもリスクも伝えます」

仕事に対してはどこまでも真面目な人。売り上げや自分勝手な仕事のやり方を良しとはせず、大工としてお客さんに何を提供できるかを大切にしている。それは仕事に対する姿勢にも現れる。

「僕は、綺麗に仕事をしたいと思っているんですね。作業している周りに道具が散らかったりしていたりも嫌だから、使ったものは置きっぱなしにせずに片付けます。大阪で建設業をやっていた時、師匠が綺麗好きで、そこで仕込まれたんですよね。仕事ではお客さんがいらっしゃる現場が多いので、綺麗に仕事している方が見栄えもいいし、その方が気持ちもいいしね」

その人の仕事ぶりは道具を大事にするかとか、ちょっとしたことに全て現れる。優しい人柄がわかる会話のやりとりやきちんと整頓された工場を見れば、中畑さんがどういう大工かがわかる気がした。

女性も歓迎。今にない新しい感性を求める

海士町で長く職人として働いてきた自負がある一方、一方で、自分にはない新しいものを取り入れていきたいという中畑さん。一人では抱えきれない仕事をこなしていきたいということもあるが、従業員を雇うことで良い意味で変化にも期待している。

「そうですね、器用な人とか、社交的であるとか。女性がきてくれるのも嬉しい。最近は、女性の大工も増えてきていますし、女性目線の柔らかい感じの仕上がりとか、そういうのも提供できたらいいかなと思っています」

Iターン、Uターンの人も多い海士町だけに、従来のやり方ではあまりなかった要望も増えてきており、それらに答えていく必要があるとも感じている。

「いろんなジャンルを受けられる事業所でありたいし、お客さんそれぞれ色があるので、そこに対応できるスキルは身につけておきたいですね。一緒に働きながら、島で培った僕の感覚ややり方も伝えるし、逆に、思っていることは伝えてもらいたい。そんなやりとりができたら、楽しく仕事できるんじゃないかなと思っています」

職人として技術をつけたい人、自分の感性を活かすことに興味がある人なら即戦力かどうかは大事ではないと中畑さん。

「経験者が来てくれればそれは嬉しいけど、経験はそこまで求めていないかな。ど素人でもやれることは結構あるし、やる気さえあればすぐに覚えてもらうこともある。一応、職人の世界では5年が一括りになっているけど、3年くらいガッツリやってもらえたら、ある程度の仕事はできるようになるんじゃないかなと思う。安心して、海士町にきてもらえたら」

 

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有限会社 中の島総合クリーンセンター

「しっかり働き、しっかり遊べ!」
“縁の下” で島の生活水のライフラインを支える

約2,300人の島民が暮らす海士町。世帯数は1,300弱で、多世帯同居やシェアハウスも多いものの、家屋の数はそれなりにある。事業所の施設・工場もある。
それらから出る下水を処理し、適切に管理する役割を担う会社が、中ノ島総合クリーンセンター(以下、中ノ島CC)。普段はその存在を島民が意識することは少ない、“縁の下の力持ち”の極みだ。長く住むIターン者でも下水処理施設の場所を知らない人は多い。

「そりゃそーだな。地元民だって、この場所を知らん人はおると思うよ」

そう話すのは、中ノ島CCの中村誠さん。父親が立ち上げた会社を継いだ、2代目社長だ。
真顔で近づいて来られたらちょっと怯みそうな風貌ではあるが、その笑顔は優しい。口数は少なく、地元民にありがちなぶっきらぼうな喋り方ながら、時折ユーモアをのぞかせて相手を笑わせる。

下水処理、とひとことで言っても色々な作業がある。そもそも下水とは、汚水(トイレから出る排水)や、雑排水(家庭の台所、風呂、洗面や洗濯で生じる生活排水)、事業所からの産業排水などのほか、雨樋を通じて排水される雨水も含まれる。

「うちの仕事は主に汚水系。汲み取り式は今では減って、浄化槽(=各家庭の敷地内に埋め込まれた小型の汚水処理設備)と、下水道の維持管理がメイン。保守と点検、清掃、検査だな。異常が出れば修繕、トラブルが起これば対応。なるべく異常が出ないように、普段のメンテナンスから、怪しいところを先読みして防ぐ感じ。24時間何があるかわからんから、緊張感はあるよ。一番怖いのは、台風や大雨がきて影響が出たとき。本土から助けが来るわけではないし、自分たちでやらないけんから。以前、台風で停電したときには3日間寝ずに走り回ったこともある。停電しても、一般家庭では水を使い続けるんだから」

現在の社員は3人で、全員が地元出身者だ。
本土で専門的に学んできた中村さん以外は、経験ゼロから始めた人ばかりだという。

「俺は島前高校を卒業してから大阪の専門学校。環境設備科に入って、今の仕事のベースを学んだ。いつか帰ってオヤジの後を継ぐんだと決めていたからね。で、大阪で就職して経験積んで、松江へ移って同業者と横の繫がりを作ってから、島へ帰ってきた。この職業は、都会でも海士町に帰ってからでも仕事の内容は変わらないね。浄化槽管理士や浄化槽設備士や、関連する資格はいろいろあって、社員が資格取得を目指すための金銭的サポートは全部する。ヤル気さえあれば誰でも取れる。俺でも取れたんだから(笑)」

その期待に応えて、“ヤル気” を武器に成長してきた社員の一人、井田竜太さんに話を聞いた。井田さんは、海士町の保々見地区出身。島前高校卒業後、松江で4年ほど、大工や法面工の仕事で働いたが、結婚して子どもが生まれたことをきっかけに家族でUターンした。

「父親と一緒に働いている人の紹介で入社して、いま11年目です。毎日の主な仕事は、処理施設や関連設備の点検ですね。町の合併浄化槽、下水のポンプ場、クリーンマスとか。入社して最初にやったのは汲み取り作業でした。まずはバキューム車の操作から覚えて、抜くだけだから作業としては簡単です。仕事はすべて現場で先輩がやることを見て真似して、実践しながら学びました。入社した頃はおじいちゃんみたいな先輩もいて、色々教えてくれました。社員みんな個性的で、教え上手で、何でも言いやすい環境ですね、資格は入社1年後に取りました。大阪で講習10日間と試験を受けましたが、島で実際にやらせてもらっていたことがたくさん試験に出たので合格できた。やっぱり現場でやってる経験は強いなって、自信になりました。新入社員は勉強すること色々あるけど、僕もサポートするから頑張れ!と言いたい」

怠けるためにも、しっかり働くべし!

「でもヤル気だけじゃなくて怠ける心も必要だぞ!」と社長が口を挟む。
怠ける心。中村さんはそう表現するが、要は、メリハリをもって仕事も遊びもしっかりやれということだ。時間を何とかやりくりして、自分がやりたいことをやる工夫ができるかどうか。よく遊べ!とは、仕事の早さもレベルも上げて上手に働け、という意味に他ならない。

「時間はあるなしじゃなくて作り出すもの。そういう考え方で生きる。うまく仕事をこなして、空いた時間を好きなことに使えよと言いたい。本当にちゃんと仕事をこなしたら、後は釣り行ってもいいんだよ。…俺のことだけど(笑)」

この島は本気で遊ぶ大人が多いが、中村さんはその筆頭と言えるかもしれない。釣り、音楽、サバイバルゲーム…。

「やるなら本気。遊びも仕事も真剣にやるからこそ続くし、面白い。従業員も、仕事ばっかりじゃなくてちゃんと遊んでほしい。遊びというか、好きなことやれよと。16時半くらいに早めに終わって、部活のバスケ指導に行ったりしてる社員もいたよ。そういうの、俺は応援したい」

中村さん自身、海士レスリングクラブ(ちびレス)や島前高校レスリング部の指導をボランティアで長年続けている。レスリングは高校から始め、3年間続けた。当時顧問だったのは、故・上田和孝先生だ。上田先生は海士町西地区出身で、高校在学中に立ち上げたレスリング愛好会が後のレスリング部になった、言わばレスリング部の生みの親。教員時代にはレスリング部の指導に心血を注ぎ、上田先生が残した『愛される人間になれ』という言葉は石碑に刻まれて、今もレスリング場のそばで生徒らを見守っている。

「高校生のとき上田先生に憧れて、体育の先生になりたかった。で、先生が亡くなる3日前に、『お前、後を頼むわな』と言われたんよ。レスリング部を一緒に支えてやってくれと。その約束を守って、ずっと指導を手伝ってる。大江町長をはじめ、海士町にはレスラーの先輩がたくさんいて、みーんな個性強すぎる人ばっかりだな(笑)。俺は大したことはできないけど、レスリングを教えて、上田先生から教わった大事なことを伝えて、高校生らの将来に繫がればいいなと思ってる。卒業後は大学行くなり社会でるなりそれぞれなんだけど、レス部で頑張った時の経験をもとに頑張れ、って言えるように」

小さなコミュニティの組み合わせで成り立つこの島では、仕事以外の人間関係、スポーツや遊び仲間の繫がりが仕事に役立つことも多い。
例えば井田さんの場合は、Uターンしてすぐに始めたフットサルチームの仲間たち。

「自分はバレー部だったからフットサルなんてやったことなかったんだけど、お前もやらんかえ?と誘われて始めました。仲間たちが面白すぎて10年以上続けてますね。そういうところで育てた“横の繫がり”は、仕事する上でも助かるんですよ。松江にいた頃は、そういう繫がりは無かった。この島は、楽しいことに誘ってくれる人がいっぱいいる。繫がろうと思えば簡単に繋がれる。そこがいいところです」

逃げ出せない。逃げ出さない。

新しく仲間を迎えるならどんな人がいいですか?とたずねると、「あんまり真面目なヤツはいやだ。俺が疲れるから(笑)」と中村さん。さらに「地域に出て行ける人じゃないと厳しいと思うよ、ここでは」と真顔で言う。
隣で井田さんが大きくうなずく。

「仕事に慣れる前に、島に慣れなきゃいけません。まずは住む地区になじむこと。神社の祭りや地区の行事では地元民は必ず声をかけるから、一緒にやってほしい。地区の人と仲良くなれば、そこから繫がりが広がるから。職場でも、僕は仕事以外でも交流したいので、自分自身、何でも相談しやすい先輩でいたい。どっか飲みいこっか!家(うち)に飲みにくっか!って誘います。うちの社長はそういう感じ。僕もそうなりたいと思ってるんです」

地域になじみ、人と繋がる。そんな暮らしの中から、島の公共インフラを支える責任感や使命感も強まっていくのだろう。

「実際、逃げ出したくなるようなシーンはかなりあったけど…俺が逃げ出したら、みんなが困る。都会と違って、ここじゃみんなの顔が浮かぶ。小さな島でこういう仕事をするってそういうことだよな」(中村さん)

「そうですね。有事の時もそうだけど、普段でも…例えば、あれっトイレの水が流れない!とか、皿洗いしていてシンクの水がたまって抜けないどうしよう!とか困ったときに、あ、中ノ島CCにお願いすればいいんだ!っていう。そういう存在でありたいし、あらねばと思ってます」(井田さん)

「大変だけど、…やらなな」(中村さん)

二人のやりとり、その眼差しには、島のために、やることはやる!という確かな気合いがにじんでいた。

 

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株式会社 ゆうでん

島では珍しいクールな外観の建物に、爽やかなライトブルーの「YUDEN」ロゴ。
この事務所を構えるゆうでんは、住宅や施設の給排水の工事、空調設備の施工を行う会社だ。

社長の波多誠さんは海士町出身で、家電の販売・修理をする電気屋の次男坊として生まれた。幼い頃から勉強よりも身体を動かすほうが好きで、技術を身につけてものづくり系の仕事に就こうと、島根県立松江工業高校(松江市)に進学する道を選んだ。

「でもまさか、卒業してすぐUターンするとは夢にも思わんかったですけど…。実家の電気屋が大変で、即戦力として呼び戻されました。そこからは、がむしゃらに働いてきましたね」

そして2010年、父親の個人事業だった家業を株式会社化し、事業を継承して代表取締役に就任。島民に浸透していた「ゆうでん」の社名はそのまま残し、水道まわり、エアコン工事等まで守備範囲を広げて、株式会社ゆうでんとして新たなスタートを切った。

「現在の社員は、この事務所(給排水・空調関連)に4名。それと最近始めた板金塗装業に2名。年齢は40歳から47歳です。設置や配管などの施工業のほうは、公共の施設が7割、残り3割が民間の家屋という感じ。海士町に住む全員が顧客なので、スタッフの人数的にはギリギリ。みんな常にどこかの現場に出ていて、日中は事務所に誰もいない状態ですね」

ゆうでんの社員は全員40代。若者というわけではない…というかむしろ皆おっさんなのだが、いたずら好きの少年のような面影を残す大人ばかりだ。

「良い意味で、遊びやさんっていうのかな。まさに “類は友を呼ぶ” で、いつの間にかこんな集まりになってた。子どもの頃にしてた遊びを大人になってもやってるやつらばかりです。遊ぶだけじゃなくて、仕事と遊びの切り替えが上手いってことですよ。以前は、昼過ぎに仕事が終わればみんなで魚釣りに行ってた。最近はよくラジコンで遊んでます。ラジコン好きも、原点はものづくり。子どもの頃に夢中でやってたプラモデル作りが、この世界に入る原点になってるんだろうね、今思うと」

島の挑戦に、自分たちも関わりたい

自社だけではなく島全体のことを考える視点を持っていたい、と言う波多さん。
島の未来のために自分には何ができるか。この問いに正面から向き合うようになったのは、2015年に立ち上がった「明日の海士をつくる会」、通称「あすあま」に参加したことがきっかけだった。

あすあまとは、「まち・ひと・しごと」創生総合戦略の策定と実現を目指すために結成された、海士町住民による会議のこと。観光や福祉、教育、漁業、農業、建設業や飲食業といった多様な分野の民間の有志らと町役場職員が、共に議論を重ねていた。

「あすあまでは、この先50年どうすんだっていうことをみんなで考えてました。そこに参加したことで、海士町の未来のためにはアレが必要だ、コレは残さないといけない、でもコレはこういうふうに形を変えないといけないとか、そういうことを常に意識するようになった。自分や自社のアクションが巡り巡って町のためになる、そういう“循環” の意味が分かるようになったり、島に昔からある工場や、地域の伝統など、なりゆきに任せたら失われてしまう “大事なもの” を守るために『今、手を打たねば』と感じられるようになったり。自分の中では大きな変化でした」

ゆうでんは、海士町複業協同組合(以下、複業組合)の立ち上げに関わり、波多さんは発起人の5名に名を連ねている。複業組合は、海士町内の複数の事業者が連携し、季節ごとの仕事量に応じて組合職員を派遣する仕組みだ。年間を通じた雇用の創出と人材育成、ひいてはU・Iターンの促進を狙う、全国でも先進的な試みとして、2021年からスタートした。

「複業組合に関わったのは、当社の利益がどうとかメリットがあるとかじゃなくて、海士町全体としてそういう人の集め方も必要なんだろうなと納得できたからです。ゆうでんも、町のチャレンジの方向性と歩調をそろえることが必要だろうなと思って。実は、複業組合からの派遣はうちのような建設業では受け入れられないんだけど(※労働者派遣法の規定による)、たまたま今、農業をやりたい社員が1名いて、複業組合に協力してもらったら農業にも挑戦できるかもしれない。そういう事例をひとつ作ることができれば、複業組合の見え方もまた違ってくるはずだしね。…要は、種まきですよ。未来への」

長期的な視点での、島のためのアクション。最近始めた自動車の板金業も然りだ。
島で長く板金塗装を営んでいた会社の社長が、体調不良をきっかけに突然事業を閉めると言い出した時、波多さんは即、動いた。

「その時は、とりあえず工場をうちの会社に譲ってくれとだけ言ったんだけど…、でもよく考えたら、板金がなくなったら町にとってはかなりの損害。だって車をぶつけるだけでお金がどんどん本土へ出ていく。なんとか残したいと考えるようになりました。たまたま先輩に板金経験者がいて、先代とも親しい。だったら彼に工場を任せて、板金もうちの事業としてなんとか存続させようと、取り組み始めたところです」

信用を売る。それが俺たちの “ものづくり”

ものづくりと言っても、メーカーのように製品を作っているわけではない。
ゆうでんがつくる “もの”は、最初は目に見えない。家や施設が出来上がった後にも、その全容は見えない。彼らが提供するのは、裏側で働く仕組みや機能そのものだからだ。

「何かを選んだり買ったりするときって、普通はモノを見てから決めるだけど、俺らの仕事は最初はモノとして見えない。工事完了した後も、換気扇や蛇口とかの部分は見えてるんだけど、俺らがやったこと自体は単体ではとらえられないよね。床下や天井裏の配線や配管がどうなっているか、システムとしてその中にどのくらいの部品を使っているか、普通は見えないでしょ。つまり『信用』を売っているということ。例えば大工だったら家を見たら上手か下手か分かるけど、施工の良し悪しは、家を長く使ってみて初めて評価されるもの。問題なく使えることが当たり前だから、価値を感じてもらいづらいかもしれないけど…、日々の仕事をコツコツやって信用を積み上げていく、地道な商売なんですよ」

と言って笑いながらも少し誇らしげな波多さんと、周りでうなずく社員たち。
見えない部分も含めての、“ものづくり”。それは長年かけて築いた信用とプライドで出来ている。

職人集団ゆうでんの一員になるなら、施工関連の経験が有るに越したことは無い。だが、社長曰く「ものづくりに興味がある人なら経験は問わない、資格の有無も問わない」とのこと。年齢も特にこだわらず、資格取得のための費用は会社でサポートする方針だ。

どんな人材が欲しいかと聞くと、「ごんた!」と即答する。ごんたとは海士弁で、やんちゃな負けず嫌いのことだ。

「この業界は、職人としての自分の成長は退職するまでに完成しないし完結もしない。現状のスキルで満足する人はもう伸びないし、どんどん探究する人が伸びていく。だから、負けず嫌いなほうがおのずと良い方向へ行きやすいです。あと、島の生活は不便が多いから、精神的にも強くないとね」

…なるほど。ごんたなら、厳しい職人の世界でもしぶとく生き抜いていけそうだ。波多さん自身、筋金入りのごんたであると見た。

「あと、島暮らしをうまくやっていくコツは、すべてを楽しむことだと思う。で、楽しむために努力が必要。仕事も同じで、働く楽しさを味わうためには努力が必要だと思ってます。俺は楽しみたいから頑張るし、新しく来てくれる人にも、一緒に楽しもうと言いたい。俺ら地元民の言葉はきつく聞こえるし最初はサッパリわからんと思うけど(笑)まとめると…ごんたで、地道に努力できて、かつ、この島を楽しむことが出来る人は、ウエルカム!!ってことですね」

 

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