島のバス停には、大きなしゃもじが立っている。
海士町発祥の民謡「キンニャモニャ」は両手にしゃもじを持って踊ることから、しゃもじは海士町を象徴するモチーフ。それにちなんで、路線バスの時刻表を貼ったスタンド看板が、しゃもじ型なのだ。
時刻表を見ると…例えば菱浦港から役場経由で豊田地区へ向かう豊田線は、1日6便のみ。本数は少ないが、島民の足としてバスは不可欠なものだ。運行会社は、隠岐海士交通。同社は路線バスのほか、観光バス、そしてタクシー事業も行っている。
「交通インフラの不便を解消して、お年寄りなど交通弱者の方々の助けになること。そして観光業としては外貨を獲得すること。地域の生活を支える一企業として、海士町の役に立ちたいと思っています」
静かにそう語るのは、海士交通の石倉功社長。高齢化が進むこの島では、買い物や銀行、診療所への通院、島外へ出るために港へ行くのにも、バスを必要とする高齢者が各地区にいる。
またタクシーは、観光客はもちろん住民の生活にも欠かせない。島には電車も運転代行サービスも無いので、遅くまでお酒を飲んだ晩にはタクシーのお世話になる人が多い。タクシー運転手は地元民の家はほぼ把握しているので、仮に居酒屋で泥酔しても、難なく家まで送り届けられる。そんな、頼りになる存在なのだ。
そもそも海士交通の歴史は、タクシーから始まった。
「父が大阪で個人タクシーをやっていました。そして島へ帰ってきたとき、町内に車が1台も無かった。オート三輪が2,3台あっただけだったそうです。それではやっぱり不便だから、タクシーを1台買ってきて、石倉タクシーを始めました。そこへ、本土の企業がバスを持ち込んで運行しだした。いわゆる外資です。それを見た父は、自分でどうしてもバスをやりたいと息巻いて、親戚から猛反対を受けつつも、バスを買い上げてバス事業を始めた。路線バス2台からスタートして、さらに観光用の貸し切りバスもやって…結果、一般旅客運送事業のすべてをやるようになりました」
一度は東京に住んでも、やっぱり海士町が好き
石倉さんが海士交通に入社したのは、平成8年4月のこと。前職は東京で音楽業界の某メーカーの子会社に勤めていたが、心機一転Uターンした。会社では事務員からスタートして、タクシー乗務、バス乗務、経理も経験。平成11年、父親である先代社長が亡くなったことを機に会社を継承し、30歳の若さで現職に就いた。
「実は会社の後ろが自宅です。社員の皆さんには子どもの頃から日々かまってもらってた。路線バスに無賃乗車させてもらって、一日中バスでぐるぐるぐるぐる…ヤクルト1本もらってずっとバスに乗ってたり(笑)。当時はすごくバス需要があって、朝から晩まで利用客がいましたね。一度は東京に出て働きましたが、東京は遊ぶには最高だけど住むとこじゃないよなーと感じていました。将来的に家庭をもって子育てするなら、星が見えて、青い海が見えて、子どもたちに草や土を踏ませて、春夏には虫取りにいって…そういうのがいいなって。根が田舎者だったんでしょうね。だから帰ってきました」
やっぱり島がいい。そんな想いで帰ってきた石倉さんに、島暮らしの魅力を聞いてみた。
「不便は限りなく不便ですよ(笑)。でもそれを上手に自分のものにしてしまえばいい。海士町が掲げている『ないものはない』という考え方が肝なのかな。これが島のリズムなんだよ、と受け入れてしまえばそれがベストの生活になる。あとは人ですね。東京だと隣の家のことは全く気にしないけど、この島だと、2、3日顔を見ないだけで、どうしたよ~?ってやって来る。それをプライバシーの侵害とか言っちゃう人には住みにくい環境だけど、違う見方もあるでしょう。例えば心臓発作で倒れた時に、近所のおせっかいとか配慮の気持ちのおかげで命が助かることもじゅうぶんあり得るわけでね。ただ、合う・合わないはあるよね」
住人、そして観光客。島内の人の巡りを良くしたい
会社を継いだ当初は「自社のことで必死で、まちづくりのことまで考える余裕がなかった」と振り返る。しかし社長として島内の各企業や団体と繫がりが増え、地域に根差し、趣味やスポーツなど小さなコミュニティにいくつも属しながら暮らしを深めていく中で、自然と島全体のことを考えるようになった。
現在は、海士町観光協会の副会長や隠岐国商工会の会長も兼務しており、主に産業の視点から、島の未来を考えていく立場にある。
「2008年に、海士町の総振(※第4次海士町総合振興計画「島の幸福論」2009-2018)の策定に参加させてもらいました。この会議で初めて、島のことについて他の人と意見をぶつけあう経験をした。これがまちづくりを考えるようになったきっかけですね。その少し前に夕張ショック(※2006年、北海道夕張市が財政破綻した衝撃的なニュース)もあり、海士町も他人事ではなく…このまま人口がどんどん減って2000人を割るようなことになったら町の経済がストップしてしまう、このままだとふるさとがなくなっちゃうんじゃないか…ってすごい危機感をおぼえたんです。もっと賑わいをつくって、その中から産業を創出して、雇用を増やして、人口も増やしていかなきゃだめだって」
いま、石倉さんの中で重要なキーワードは、“賑わいをつくる” 。そして “人を巡らせる” 。そのための挑戦を続けているところだ。
「観光バスが動かないことには宿も繁盛しないし、お土産業も繁盛しない。人が通り過ぎるだけじゃ全く外貨が落ちないんです。港完結の団体輸送だけじゃなく、港から島中へ人を引き込めるようにしたい。例えば、隠岐神社の鳥居の前に昔からあった観光休憩所を『つなかけ』というお土産屋さんにリニューアルしたんです。運営は隠岐桜風舎で、私は取締役をやらせてもらっています。あの場所をもっと賑やかにしていきたい。大袈裟に言っちゃうと、外貨獲得のためには、島内まるごと海士町アトラクションっていうイメージを実現したいんです。路線バス、タクシー、貸し切りバス、この3つは客層がぜんぶ違う。それらが人や活気を循環させて、島がディズニーランド化したら面白いよね。観光バスが1本の川の本流であるとしたら、支流を町内中にあちこち張り巡らせて、100円でも200円でも町内に落ちるようにできたらいい。そこから、創業や雇用が生まれる」
町内の流動人口を回せる仕組みづくり。
人を運ぶだけではなく、住民どうし、そして観光客と住民とのコミュニケーションも繋ぐ。観光スポットを繋ぎ、周辺のアクティビティと繋ぎ、地元のプレイヤーどうしを繋ぎ…
宿、飲食店、交流施設。繋いでみて初めて生まれる価値、動き出すサービスや企画もあるだろう。
交通インフラの立場から、島の総合力を底上げするような存在に。石倉社長のビジョンは壮大で、“ディズニーランド化” への道のりは簡単ではないだろうが、島内を人が巡る仕組みづくりは海士交通なしでは実現しない、ということは確かだ。
「そういうビジョンに賛同してくれる人が来てくれたら嬉しい。とりあえず最初は、ここで生活してみたいな~というシンプルな気持ちからでいいと思います。おいしい空気吸って、美味いもん食べて、サラリーをもらって、スタートはそれで十分。
あと言いたいのは、来る人には見た目じゃなくて業務の中で個性を出してほしい。観光客相手の仕事では、喋り方や伝え方で必ず個性が出てきます。要所要所の案内だけはきっちリしながら、限られた時間の中でどういうふうにお客さんに満足していただけるか、という工夫の部分でその人らしさが出てくるといいですね。
まあ、とにかく暮らすことからです。地に足つけて、徐々にやりたいことを見つけて、いつか創業するのもいいかもしれない。まずは、一緒に海士で生活しましょう」(笑)